おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

何かを否定するべきではない理由・全てを大事にするべき理由

考える「言葉」と悩む「思い」とによって目覚めた瞬間の「生の世界」が複雑に色付けされ、加工された二元対立の世界に変貌します。そして、私はその世界の中で一日右往左往しながら生きることになるのです。

 

世界はもともと無名で無色の世界だったのです。目覚めた瞬間の世界はそうだったのです。それが自他対立の世界に変貌し、あれを考え、これに悩み、ときには怒り争う一日に終止してしまいます。私たちはそのような対立状態の毎日を生きています。

横山紘一『唯識の思想』

 

私たちは物事を正しく認識しているつもりになって日々を生きているのだけれど、実は個々人が見ている世界というのはその人なりに加工された世界だ。

 

気づかない内に物事を自分なりに編集していて、それをありのままの姿として誤認して認識している。

 

これはこういうものだ。あの人はああいうものだ。ああじゃないとけいない。こうじゃないといけない。あれは良い。あれは悪い。こういう人は良い。ああいう人はダメ。

 

このように個々人の基準で世界を色付けし加工し編集し、そうして色付けされ加工され編集された世界の中に私たちは生きている。

 

よって、誰かを見る時、私たちはその人そのものを見ているのではなく、自分が色付けし加工し編集して作り上げたイッメージを見ているということになる。

 

「この人はこういう人だ」と自分なりに加工編集し、固定化したイッメージを見ていることになる。

 

だからこそ、ある人Aさんに対する見え方が人によって異なるということが生じる。

 

BさんにとってAさんは善人に見える。

CさんにとってAさんは悪人に見える。

 

Aさんが本当は善人なのか悪人なのかは誰にもわからないけれど、Bさんは自分が作り上げた「Aさんは善人だ」という世界の中にいて、それはBさんにとって紛れもない現実だし、Cさんは自分が作り上げた「Aさんは悪人だ」という世界にいて、それはCさんにとって紛れもない現実ということになる。

 

現実は唯一ではなく、人の数だけあるということになる。

 

私たちは常に自分が作り上げたイッメージを見ているので、相手に対して否定的な感情を起こすということは、自分が作り上げたイッメージに対して否定的な感情を起こすということになり、その自分が作り上げたイッメージというのは自分の認識なり自分の心なりであるため、自分自身に対して否定的な感情を起こすということになる。

 

CさんにとってAさんは悪人に見えるかもしれない。

 

それはCさんにとっては現実なのだけれど、CさんはAさんをありのままに捉えておらず、自分が作り上げた「Aさんは悪人」というイッメージを見ている(Cさんにとってその悪人のAさんは実際のAさんとしか思えない)。

 

ここまではいいのだけれど、それからCさんがAさんに対して否定的な感情を起こすようなことがあると、それは自分の認識に対して否定的な感情を起こすことなり、自分自身に否定的な感情を起こすことになり、自分自身を攻撃することになり、自分自身を傷つけることになり、結果苦しむことになってしまう。

 

相手に対して否定的な感情を起こすことは、結局は自分を否定していることになるので、自分を苦しめるだけで何のメリットもない。

 

まぁ、そういうことがわかっていてもどうしても否定的な感情を起こしてしまうのだけれど、そういう否定的な感情に気づいたら、それは相手ではなくただただ自分を傷つけているということを思い出すことによってあかへんどすあかへんどすと自制しやすくなる。

 

例えば一人でぼさっとしている時に、ある人のことをふと思い出し、その人に対して心の中で自分の怒りなり恨みなり辛みをぶつけることがあると思うのだけれど、それは単純に自分の心でその人のイッメージを立ち上げ、そのイッメージ=自分の心を自分で攻撃しているに過ぎない。

 

そうすることで、その実際の相手が何らかのダッメージも受けることはない。ただただ自分が自分を攻撃して自分がダッメージを受けるだけで、やればやるだけ自分が苦しくなるだけで、損するだけなのである。

 

私たちが認識している人やものというのは「人そのもの」や「ものそのもの」ではなく、必ず自分自身から生み出されている自分なりの認識、自分なりの解釈、自分なりのイッメージでしかない。

 

だから、ものや人を粗末にする、否定的に扱うということは自分自身を粗末にする、否定的に扱うということなり、その結果苦しむことになる。

 

逆に、ものや人を大事にする、肯定的に扱うということは自分自身を大事にする、肯定的に扱うということになり、その分だけ苦しみが生じない、むしろ、安心感や平穏がもたらされるということになる。

 

これを理解すると、自分の世界への接し方と自分のメリット・デメリットが完全に一致することになり、人やものを粗末にしたり、否定的に扱ったりすることはできなくなる。

 

また、誰かが私のことを攻撃してきた時に、相手は私が悪に見えている世界の中にいて、相手は相手自身が作り上げた私のイッメージ=相手自身を攻撃しているだけだということがわかる。

 

これがわかると、相手の攻撃を攻撃として真に受けることがなくなり(参考意見程度に捉えればいいだろう)、そうなると相手の攻撃は私自身には届かず、相手はひたすらに相手自身を攻撃し続けることになり、その結果苦しむのは相手だけということになる。

 

そしてそれは相手が自分の目の前で自傷行為を行っているようなものなので、憐れみの情が湧いてくる。

 

というのは仏や菩薩やイエス・キリストや聖人クラスの人で、私たちのようなパンピー凡夫は、どんなに上述ことを理解し相手の攻撃を空じても、まじでざまぁ、と相手の苦しみを願う情が湧いてきて、それによって自分が苦しみ、ぴえんとなり、反省するということになる。

 

それでも自分が見ている世界は世界そのものではなく自分の認識=自分自身ということに気がついていれば、気がついていない時ほど、容赦なく相手を否定することができなくなる。

 

相手を100の度合いで否定したら、100の度合いで自分を否定することになる。

相手を1億の度合いで否定していたら、1億の度合いで自分を否定することになる。

 

何かを否定することは自分を否定することと同じで、その自己否定の度合に応じて苦しみの度合いが決まる。

 

メンタル的に何らかの息苦しさを感じている人や生きづらさみたいな感じのニュアンス的な雰囲気っぽいものを感じている人は、自分と世界は完全に切り離されていて、世界をどんなに否定しても、それは自分とは無縁なのだから否定し放題ざます、嫌なことがあったら否定しないと損ざます、くらいに思い込んでいて、世界を否定することは自分を否定し自分に苦しみをもたらすということに気がついていないので、世界を一切の手加減なく否定していて、その結果、その分だけ自分がダッメージを負うので、精神的に辛くなっているのかもしれない。

 

自分を不用意に苦しめないためには、自分が見ているものや、思い浮かべているものは自分の認識であり、自分自身であるということに自覚的である必要があるのかもしれない。

 

声出して切り替えていこうと思う。