おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

ものを捨てる時の不安

何が起こるかわからないという気持ちから、モノがたくさんあると人は安心するものです。逆に、モノを取り去ることを考えると、裸になってしまうような心もとない気持ちになる。

 

しかし、その不安は本当に根拠のあるものでしょうか?

佐藤可士和佐藤可士和の超整理術』

 

自分の持ちものを「使っているもの」と「使っていないもの」に分けて、使っていないものを捨てる。

 

これが習慣になると時間にもお金にも余裕が出てきやすくなり、生活が安定しやすくなるのだけれど、使っていないものを捨てるということは案外と難しい。

 

「使っていない」ということは「持っていない」ことと同じことで、それは実際に使っていないのだから捨てたとしてもガチのムチで困ることはない。

 

だけれどなかなか手放せないのは、それを手放すと「裸になってしまうような心もとない気持ち」になり、不安になるからだ。

 

それもすごくわかる。

 

んじゃあ、それはどういう不安なのかしらん。

 

私たちは持ちもので自分を定義している。

持ちもので自分はこういう人間だという理想の自分像みたいイッメージを作り上げている。

 

あるいは自分の中に自分はこういう人間だというイッメージを持っていて、そのイッメージに合うようなものをかき集めている。

 

しかしそれはあくまでもイッメージであり、現実ではない。

 

現実の自分は時間と労力の制限をガチムチに受け、今使っているものを使っている自分が現実の自分だ。

 

「持ちもの=使っているもの」ではない。

持ちものの中に使っていないものがたくさんあるのだとしたら、持ちものと使っているものの間には大きなギャップがあるということになる。

 

自分の頭の中には、あの服も着てこの服も着て、あの本も読んでこの本も読んで、あれも食べてこれも食べて、あれも手に入れてこれも手に入れてという際限のないイッメージでいっぱいかもしれない、学生だった頃の自分、若かった頃の自分、できた頃の自分、輝いていた頃の自分というイッメージでいっぱいかもしれない。

 

だがしかーし、今の現実の自分というのは、今の年齢の自分であり、今ある時間と労力の分しかものを使うことができない自分でしかない。

 

今使っているものが今の現実の自分を教えてくれ、何かを使っていないのであればそれを使っていた頃の自分はもういない。

実際は使うだろうと想像していたにも関わらず使っていないのであればその自分は妄想でしかない。

 

つまり、ものを捨てる時に感じる心もとなさや不安というのは、自分が抱いている自分のイッメージが崩れるが故に生じている。

 

自分は自分のイッメージどおりの人間ではないということが突きつけられる、つまり現実を突きつけられるからこそ裸になってしまうような心もとなさを感じてしまう。

 

逆にその現実を受け入れたくない、自分が思い込んでいる「自分はこういう人間だ」というイッメージにしがみついていたいからこそ、そのイッメージを支えているものを手放したくなくなる。

 

自分は「こういう人間だ」というイッメージを支えているものを手放すと、実は自分はそういう人間ではなかったということに気がつくことになる。

 

そのイッメージのために費やしてきた時間と労力とお金と努力は何だったのかと我に返ることにもなる。

 

だがしかーし、その分だけ、想像上の自分と現実の自分とのギャップが埋まることになる。

 

使っていないものを捨てて使っているものに集中できるようになると、現実の自分をしかと見つめられるようになる。

 

「持ちもの=使っているもの」ではない。

「持ちもの=自分」ではなく「使っているもの=自分」だからな。

 

使っていないものを手放して使っているものに注意を払えるようにようになると、今の自分の時間と労力の限界がわかるようになる、今の自分には何がどれくらい必要なのかがわかるようになる、今の自分には何をどれくらい使うことができるのかがわかるようになる、今の自分には何が大事なのかがわかるようになる。

 

結果、大事なものはそんなに多くはないということがわかる。

 

あとは自分にとって大事なものを大事にしていくだけだ。

 

「これは大事だ」と思い込んでいるものがあったとして、もしもそれを長らく使っていない、手にしていない、眺めていないのであれば、それは実際は大事ではないのかもしれない。単なる思い込みにすぎないのかもしれない。

 

それを「使っていた自分」というのはもう現実にはおらず(ある意味そういう自分はもう死んでいるとも言える)、自分の想像の中にだけ存在する亡霊のようなものなのかもしれない。

 

このようにある意味亡霊に取り憑かれたような状態を執着という。

 

執着心が強いということは、現実と想像の間に大きなギャップがあるということで、そのような想像を妄想と呼ぶのかもしれないが、執着が強いと現実ではなく妄想を軸に現実世界を生きることになるので必ず日常のバランスが崩れる。日常のバランスが崩れると苦しみのスパイラルにはまり込み不幸になる。

 

よって日常のバランスを保つためには、現実と自分の想像のギャップを狭める必要があり、現実と想像のギャップを狭めるために、使っていないものは捨てるという習慣が必然と必要となってくる。

 

使っていないものを捨てようとすると、確かに最初は自分の亡霊が悪さをして断末魔をあげて不安になるが、使っていないないものを捨てれば捨てるほど、亡霊の大きさも小さくなってきて、ガチのムチで生活が安定してくる。

 

際限なくものが欲しくなることもなくなり、ものを溜め込んでおくこともなくなり、自分の持ち物が一定に保たれ、月々の出費が安定する。

 

ゴーストバスターズとして誰かの断捨離を手伝うのも面白いかもしれない。

 

声出して切り替えていこうと思う。