おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

ケチと浪費

若い頃に金をケチってばかりいるのは大きな過ちだと気づいたまではよかったが、その反動で、今度は闇雲に無駄金を使うという過ちを犯してしまった。以前は節約しすぎ、今度は無駄遣いし過ぎだ。

ビル・パーキンス『DIE WITH ZERO』

 

ケチの極致は実は一番の無駄遣いである。

岩尾俊兵『世界は経営でできている』

 

私たちはお金を節約しすぎたり使いすぎたりして日々右往左往しているのだけれど、お金を使わなすぎることや使いすぎることことは一見正反対のように見えて「世間的価値で自分の価値を定義しようとしているという点では同じ」ということが言える。

 

お金を使わなすぎるということは、お金を可能な限り自分の手元に置いておきたい、可能な限りお金を増やしたいということになる。

 

そうして増えたお金の量=自分の価値であると思ってしまう。

 

その上で、いかに人よりもお金を持っているのか、それによって自分の価値は決まると思ってしまっている。

 

この思考パッターンによると、自分のお金の量が減れば自分の価値も減ることになり、その分だけ人に対する優越感を得ることもできなくなり、自分の価値を実感できなくなるので、お金を使うことにものすごい抵抗感、不安感、恐怖感を感じてしまい、お金を使わなすぎるということが生じてしまう。

 

逆にお金を使いすぎるということは、お金を何らかのモノやサービスに変え、そうして手に入れたモノやサービスの量や質で自分の価値を定義しようとしているということになる。

 

いかに人よりも高価なモノを持つか、高価なサービスを使うか、より多くの高価なモノを持ったり高価なサービスを利用したりするか、それによって自分の価値は決まると思ってしまっている。

 

この思考パッターンによると、身の回りに高価なモノやサービスの量が減れば、その分だけ自分の価値も減ることになり、その分だけ人に対する優越感を得ることもできなくなり、自分の価値を実感できなくなるので、不安や恐怖や強迫観念に駆られて高価なモノやサービスをかき集めてしまい、その結果お金を使い過ぎるということが生じてしまう。

 

ケチと浪費は、前者はお金という価値によって自分の価値を定義しようとしている結果であり、後者は高価なモノやサービスという価値によって自分の価値を定義しようとしている結果であり、いずれにしても世間的価値によって自分の価値を定義しようとしているパッターンに変わりはない。

 

1000万円という貯蓄額を通じて「おれはこんなに価値のある人間なんだ」ということを実感したいのか、1000万円分のモノやサービスを通じて「おれはこんなにも価値のある人間なんだ」ということを実感したいのかの違いに過ぎない。

 

んじゃあ、どうしてそこまでして世間的な価値と自分の価値を強く結びつけようとするのか。

 

それは人から大事にしてもらいたいからだ。

 

そして、世間的に価値のあるものを手に入れれば、人は無条件で自分のことを大事にしてくれると思い込んでいるからだ。

 

逆に、世間的に価値のあるものをもっていなければ、人から大事にしてもらえない、相手にしてもらえない、邪険に扱われる、粗末に扱われると思い込んでいるからだ。

 

(それは何よりも自分自身が世間的に価値がないとみなした人を邪険に扱うからこそそう思い込んでしまう)

 

だから私たちは世間的な価値をもってして自分のことを価値のある人間として定義しようとしたり、人から価値のある人間として見られようとして、ある人はケチに、ある人は浪費家になってしまう。

 

ケチにも浪費家にもならないためには、諸行無常の理を理解する必要がある。

 

私たちが自分を価値のある人間として定義するための根拠にしようとしているお金やモノやサービスは諸行無常の理によって変動するもので、実は心もとないものであるということを理解する必要がある。

 

また、それらはこの肉体が退化し消滅していく過程で、いずれは手放していくものでもあるということを理解する必要がある。

 

そうして手放していくということは自分を価値のある人間として定義するための根拠を失っていくということで、お金やモノやサービスによって自分を定義しようとしていた分だけ(執着していた分だけ)、手放す時に苦しみが生じやすくなるということを理解する必要がある。

 

どうして自分はケチってお金を握り締めようとしているのか、どうして自分は浪費してお金を湯水のように使ってしまうのか。

 

ケチってしまうのも浪費してしまうのも仲間ってことで、両者ともに寂しいということや。

 

なるほど。

 

声出して切り替えていこうと思う。