おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

文系だけど物理の面白さがわかってきた

常識的に考えれば、ネコの生死は箱を開ける前に決まっているはずです。

ところが量子論の解釈によっては、ネコの生死はきまってなどおらず、両方の状態が共存していると考えるんです。そして箱の中を確認した瞬間にはじめてネコの生死が確定するんです。

 

コペンハーゲン解釈によると、電子がどちらのスリットを通ったかを確かめると、その行為そのものによって電子の波は収縮し、電子はどちらか一方しか通らないことになります。

松尾泰 監修『東京大学の先生伝授 文系のためのめっちゃやさしい量子論

 

最近、ふと量子力学の本を手にとって読んでみたのだけれど、とても面白かった。

 

物理学ってこんなにおもろかったんやー、となぜか関西弁になってしまったのだけれど、高校の時に教科書を数ページ開き、あ、これ無理なやつや、とただそれだけの理由で文系行きを決定してしまったのが悔やまれるくらいに面白い。

 

物理学と聞くと、ワケワカメな数式が出てきて自分の手には負えない感じがムンムンに出てくるが、あまり数式を使わない概要的なものだと多くの人が楽しめるのではないかと思う。

 

本の中で面白かったのは、ミクロの世界、物質の最小単位クラスの世界では、私たちの常識では共存できるがわけないと思われる状態が実際に共存しているとしか考えられないような状態があるという。

 

そしてその共存状態は私たちが観測することによってどちらか一方の性質になってしまう。

 

自然状態では共存状態で、観測すると一方の性質になる。

自然状態ではAという状態とBという状態が重なっているのだけれど、観測するとそのどちらかの状態になる

 

つまりミクロの物質を観測しようとすると、そのミクロの物質は観測するという行為そのものから影響を受け、ありのままの状態から性質を変えてしまうということになる。

 

つまり、ミクロの物質をありのままに観測することは原理的に不可能ということになる。

 

電子を観測するには光が必要らしく、電子はあまりにも小さいため光の影響をもろに受ける。だから観測そのものによって性質を変えてしまう。その結果、見え方が変わってしまう。

 

このことはとても示唆的で、日常生活において私たちが何かの対象を捉えている時、例えば何かを見ている時、その対象は私たちの主観の影響をもろに受ける。

 

観測者がどのような人格なのか人柄なのかによって、観測対象の人や動物が見せる表情や態度や感情が大きく異なってくるじゃろう。

 

こうして観測者の主観、観測者の人柄の影響を受けた結果、観測者によって物事の見え方が大きく異なるじゃろう。

 

どの観測者の報告が正しいとか間違っているとかではなく、観測者そのものが一人ひとり異なっているのだから、観測者の報告一つひとつが異なっていることは至極当然じゃろう。

 

そして私たち観測者は個々人の観測データだけで構成されている世界の中にいる。

 

自分自身が対象を温かく捉える主観を持っており、自分の人格が人の温かさを引き出すようなものであれば、自分の世界は温かいものになり幸福なものになる。

 

自分自身が対象を否定的に捉える主観を持っており、自分の人格が人の冷たさを引き出すようなものであれば、自分の世界は冷たいものになり不幸なものになる。

 

話が逸れたが、とにかく物理学というのは面白いということがわかった。

 

Youtubeで動画も見てみたが、やはり面白い。

 

何か楽しみが増えたような気がして得した気分だ。

 

声出して切り替えていこうと思う。