私たちは一つの共通な同じ世界の中に住んでいると思っています。しかし、決してそうではありません。一人一宇宙に閉じ込められているのです。
そしてこの閉じ込められた世界、すなわち自分の心の中に、自分が認識しているあらゆる存在があります。
私が沈みゆく太陽を見てあなたに「美しいね」と言い、あなたも「そうね」と答える。しかし、私が私の心の中に思い浮かべている、いわば私の太陽をあなたは見ることができませんし、またその逆も言えます。
横山紘一『唯識の思想』
私たちは自分のことを正常だと思い、自分は物事をありのままに認識していると思い込んで日々生活しているのだけれど、実は私たちは物事をありのままになんか捉えておらず、本来無色透明な物事に自分なりに色付けをして、そうして色づけしたものを自分で色付けしているものだとは気がつかないまま、それは誰とでも共有できる紛れもない客観的な事実や現実であーる、と思い込んでしまっている。
あるものを見てもそれに対してどのように色づけするのかは個人によって異なるため、実際にそれをどのようなものとして受け取るのかは人それぞれ異なる。
そして、個々人はそれぞれにとってそう見える別個の世界の中に生きている。
あるものを見てそれが赤に見える人は、赤色の世界の中に生きていて、その人にとってその赤は現実で、同じものを見てそれが青に見える人は、青色の世界に生きていて、その人にとってその青は現実ということになる。
よって、私たちは同じ空間や同じ対象をガチムチに共有しているかのように見えても、実際にそれぞれが住んでいる世界、認識している世界、色付けしている世界は個々人で全く異なる。
私たちは物事をありのままに見ることができない。
私たちはそれぞれ異なる色づけをした異なる世界の中にいる。
以上の2点がわかり、それを自分の大前提に据えれば、どちらが正しいとかどちらが間違っているとかを巡って言い争うのが馬鹿らしくなってくる。
お前は間違っているぽよと責め立てるのは、自分は物事をありのままに見ていて物事を正確に捉えているという前提に立っているからであるが、私たちは誰も物事をありのままに見て正確に捉えることはできない。
事実として正確なのは、相手にはそれがそう見えている、私にはそれがこう見えている、ただそれだけだ。
どちらが正しいとかではない。
あとは話し合ってどう折り合いをつけるかということになる。
以上の2点がわかると、相手にはどう見えているかをきちんと聞けるようになる。
自分の見え方が自分なりに色づけされていることがわかっているため、そうではない見え方もあるかもしれないということが理解でき、相手にとっての見え方を聞く必要性を理解できるからだ。
逆に、自分は物事をありのままに見ることができ、物事を正確に捉えることができると自惚れていると、自分の判断は常に全て正しいということになり、そうなると相手の意見を聞く必要が全くなくなってくるため、相手の話を聞かずに独断専行ということが横行してしまう。
なお、相手の意見を聞く必要性を理解できたからと言って、必ずしもそれは相手が正しいということにはならない。
人間である以上、自分も相手も物事をありのままに見て正確捉えることはできない。
相手の意見もあくまでも相手にはそう見えるというだけで、相手を盲信したり、相手の言いなりになる必要はない。
相手にはそう見えるのかー、ほーん、おもろいなー、で終わりだ。
自分には物事がどう見えていて、相手にはどう見えているのかがわかると、それぞれにとってのそれぞれの見え方から、それぞれがどのような「世界」にいるのかもわかる。
例えば、何かにつけて物事が悪く見え、憎く思えてしまう人は「悪と憎しみの世界」にいて苦しんでいる。
何かにつけてありがたく思えてしまう人は「満ち足りている世界」や「寛容な世界」にて苦しみから離れている。
私たちは物事をありのままに見ることができない。
私たちはそれぞれ異なる色づけをした異なる世界の中にいる。
これを大前提にすると、自分や相手がどのような色づけをして物事を捉えているのか、どのような世界にいるのか、どのような宇宙に閉じ込められているのかということを知ることが面白くなってくる。
相手の話を聞くことは相手がいる世界を知ることに繋がるので、相手の話を聞くことが面白くなってくる。
何を書きたいのかわからなくなってきたので、ここで終わります。
声出して切り替えていこうと思う。