おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

日々のいざこざの元凶

白紙の世界を自分が塗りたいように塗っている事実において、その他人もまた自分が創造した他人であるので、

 

あの人があのような考えを持つのは、どのような理想を持っているからなのか

そして、その理想はあの人が世界をどう見ているからなのか

それは自分の見方とどう違うのか

そして自分と違うあの見方を持つ人をなぜ私は創ったのか

その事実をどう受け止めればいいのか

 

となるでしょう。

宮野公樹『問いの立て方』

 

「わかる」は「分かる」であり、分けて切り取ったものである。そうした認識は自然のあるがままの実相から遠いといわなければならないが、それにもかかわらず人びとはそれを絶対的なものと考えて、一喜一憂をくりかえす。世界の混乱はここから出てくるのだと、老子は考える。

金谷治老子

 

私たちは物事をありのままに見ておらず、無色透明な世界を自分に都合の良いように色付けをして捉えていて、それを「わかった」としている。

 

「わかる」ということは、自分に都合よく物事を切り取っているということで、やはり私たちは物事のあるがままの実相を捉えきれない。

 

ということがわかっていないために、私たちは自分は絶対に正しいんだという大前提に立つことができ、我こそは物事をありのままに捉えているんだと思い込んでしまう。

 

(まぁ、本人には物事がそのようにしか思えないし、そのようにしか見えないため、そう思えるもの、そう見えるものは本人にとっては紛れもない現実であることは確かなのだけれど、「そう思える」ということと「そうである」ということは全然違うし、「そう見える」ということと「そうである」ということも全然違う)

 

自分が善としているものは自分にとって都合の良いものを善としているに過ぎず、自分が悪としているものは自分にとって都合の悪いものを悪としているに過ぎない。

 

自分にとって都合の良いものを好きなものとし、自分にとって都合が悪いものを嫌いなものをしているに過ぎない。

 

そうした自分にとっての都合の良し悪しを基に作られた善悪の基準を、自分なりの常識とし、そうした常識を基に、こうでなければならない、ああでなければならないという自分なりの理想を作り出す。

 

その理想もあくまでも「自分なり」でしかないのだけれど、私たちは自分の理想を絶対化し固定化し、自分なりの理想を自分に課して強迫観念を生み出し、自分なりの理想を他人に課して相手を責め立てる。

 

あるものがその理想にかなっていれば、それは善であり価値があるということなり、その存在を肯定する。あるものがその理想にかなっていなければ、それは悪であり価値がないということになる。

 

人それぞれ異なる都合を持ち、異なる常識を持ち、異なる理想を持っているのだけれど、一人ひとりが自分の立場からしか物事が捉えられないため、自分の都合を絶対化固定化し、自分の常識を絶対化固定化し、自分の理想を絶対化固定化し、誰もが自分は正しい、こうするのが常識なんだ、こうすることが理想のあり方なんだ、と自分は正しい、間違っているのは他人・社会、というところに常に立って、日常の大小種々様々ないざこざが絶え間なく起こっている。

 

自分はその物事をありのままに正確に捉えていない、その人のことをありのままに正確に捉えていない。ただ「そう見える」だけのものを「そうである」と思い込んでいるだけでしかない。

 

んじゃあ、どうして自分にはそれがそう見えるのか、その人のことがそう見えるのか。そうではない見え方も楽勝であるにもかかわらず。

 

自分が何かを良いと思い、悪いと思っているということはそこには自分の都合があり、自分なりの常識があり、自分ありの理想がある。

 

んじゃあ、その自分の都合はどういうものなのか、自分なりの常識はどういうものなのか、自分なりの理想はどういうものなのか。

 

それらは果たしてどういった意味で善なのか。

それらは果たして本当に絶対なのか。

どうして自分はその常識、その理想にこだわるのか。

こだわることによって、どういった理想の自分像を証明し、アッピールしようとしているのか。

そういった理想の自分像を証明し、アッピールすることで、何を期待し、何をしたいのか。

 

ああするべきだこうするべきだと自分が自分なりの善悪に執着し感情的になっている時は上のような自問自答をし、自分を知る良い機会になる。

 

ああするべきだこうするべきだと他人が他人なりの善悪に執着し感情的になっている時は上のような問いの「自分」を「あの人」に置き換えて考えてみると、相手と自分を知る良い機会になる。

 

(なぜなら自分が見ている相手というのは、自分が自分なりに色付けし創り出し歪んで見ている影像でしかなく、ありのままの実際の相手はその影像の向こう側にいて、自分には絶対に捉えられない存在であるため、自分が捉えている相手について考えるということは自分について考えることと同じことになるからな)

 

日々のいざこざを通じて、まずは自分なりの常識と自分なりの理想と自分なりの善悪を洗い出す。それから相手なりの常識と相手なりの理想と相手なりの善悪を聞き出して洗い出す。

 

すると両者の相違点や共通点、あるいは共に間違った前提に立っていることなどが浮き彫りになってくるかもしれない。

 

自分は絶対に正しい。自分は物事をありのままに見ている。

この手の自惚れを少しは薄めてくれる良い機会になるかもしれない。

 

この自惚れから少しでも脱却しない限り、自分の思い込みと現実とのギャップが一向に埋まらず、現実に即した考え方や判断ができなくなるため、問題が次々と生じやすくなってくる。

 

声出して切り替えていこうと思う。