おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

想像に怒る

実は我々が何かに憤慨する時は相手や出来事そのものに怒っているのではない。自分の中で膨らませた想像に対して怒っているのである。

 

我々は、相手の考えを勝手に想像して、勝手に自分の常識と比べて、勝手に相手を非常識と決めつけて、勝手に怒り狂う。怒ることでさらなる怒りの原因を自分から作る。

岩尾俊兵『世界は経営でできている』

 

人は、物事をあるがままに、つまり客観的に見ていると思い込んでいるのが常である。しかし、私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままに(条件付けされたままに)世界を見ているのだ。物事を説明しようとすると、それは結果的に自分自身、自分の知覚、自分のパラダイムを説明しているにすぎない。そして自分の意見に相手が賛成しないとなれば、すぐにその人が間違っていると思ってしまう。

ティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』

 

私たちは物事を必ず自分の心のフィルターを通して捉えている。

そしてありのままの客観的な事物はそのフィルターの外にある。

よって私たちが相手や物事をありのままに見ることは不可能ということになる。

 

それはそれで仕方がない。

そういう構造なのだからどうしようもない。

 

自分の認識には必ず限界がある、自分の見方には必ず見落としている点がある、偏りが出る、よって、自分は間違っているかもしれない、ということを前提にして(自分は必ず間違っている、ではない)、事物を慎重に確認していけばいいだけだ。

 

だがしかーし、このことに自覚的でないと、「自分は正しい」という前提に立ってしまい、自分は物事をありのままに、客観的に捉えることができると自惚れてしまい、物事が自分の思い通りに(自分が正しいと思っているとおりに)進まないと、怒り狂う、人が自分の思い通りに動かないと怒り狂うということになってしまい、自称賢者だったにもかかわらず、気がつけばバーサーカーに成り果て、苦しみ喘ぐということになりかねない。

 

例えば、ここにある後輩がいたとして、その後輩に「先輩、こここうした方がいいと思うんですけど」と言われたとする。

 

それを聞いて、あいつはおれのことをコケにしている、とんでもないゲス野郎だ、おれがどれだけ苦労してこのキャッチコピー、あ、間違えた、このキャッチーコピーを考えたのかあいつにはわからへんのんか、と私はが怒り狂うかもしれないが、そもそも私はその後輩の真意をその時点で確認していない。

 

その後輩にその言葉をどういう真意で言ったのかを尋ねてもいないし、尋ねたところで、その後輩が正直かつ誠実に答えてくれなければ、後輩の真意などわかりようがない。

 

なのにであーる、私は「あいつはこういう気持ちでこう言ったに違いない、こうしたに違いない」と自分勝手に想像し、自分勝手に決めつけ、自分にとっての「悪の後輩」という虚像を立ち上げ、「正しいおれっち」という虚像を立ち上げ、正しい人間は間違っている人間(悪の人間)を苦しめてもよいという懲罰思想に基づき、その後輩に対して激昂してしまっている。

 

ここで気がつくべきことは、私が怒っているのは後輩そのものに対してではなく、自分で勝手に立ち上げた「悪の後輩」という虚像に対して怒り狂っている。

 

その「悪の後輩」は「人のことを馬鹿にする人間」というものであるが、本人の真意を確認してもいないのに、どうして私はそのような想像してしてしまったのかしらん、思い描いてしまったのかしらん。

 

それは自分に人のことを馬鹿にする側面があるからだ。

 

何かを指摘する時に、自分は相手を馬鹿にする気持ちで指摘することが多い。

 

だからこそ、他人に指摘されたら、他人も自分と同じように馬鹿にする気持ちで指摘しているに違いないと想像してしてしまう。

 

そう想像しているということに自覚的であればいいのだけれど、多くの場合、それは自分の想像にすぎないということには気がつかず、そうに違いない、そうであると事実認定してしまい、怒りのスイッチオーン、となってしまい、お前が悪いから私は怒っている、お前は加害者で悪であり、私は被害者であり善人であーる、よって私がお前を苦しめることは善であり正義なのであーる、となり怒りや暴言や暴力が全て正当化されることになる。

 

逆に、日頃から自分が相手のことを指摘する時に、相手のことを馬鹿にする気持ちなど微塵もなく、むしろ相手のためや、相手が成し遂げようとしている目的のために心温かい気持ちで指摘することが常であるならば、自分が相手から指摘された時に、相手から馬鹿にされたぽよ、という想像をすることがなく、むしろ自分のことを思ってくれている、ありがたいぜ、ベイビー、という気持ちにさえなる。

 

人から何かをされた時に、人のことをどのように決めつけているのかで、自分が日頃から人に対しどのような思いを起こしているのかがわかる。

 

そして自分が日頃から起こしている思いによって自分の思い込みが異なってくる、そして私たちは自分の思い込みでしか世界を捉えることができないため、自分の思い込みが異なってくると自分の世界も異なってくる、そして、自分が思い込みよって捉えている世界によって自分が受ける苦しみや幸福の度合いは異なってくる。したがって自分が日頃から起こしている思いによって、自分が感じる苦しみや不幸が決まってくる。苦しみを感じる時は自分が日頃から人に対して起こしている思いが跳ね返ってきているにすぎない。

 

そして誰かに対して怒る時は自分が勝手に立ち上げた虚像を、相手に重ね合わせて怒っている。そして、相手が目の前からいなくなったとしても、その虚像は心に残り続け、その虚像に対して怒りをぶつけ続けてしまう(おそらく心の中では「悪の相手」とう虚像に罵詈雑言を浴びせかけたり、サンドバッグにして殴りつけたり、刃物でめった刺しにしていることだろう)。

 

そして、ここで気づかなければいけないことは、その虚像は相手では自分自身であるということだ。

 

その虚像は自分の心なり想像力によって立ち上げられているのだから、相手そのものではなく、自分自身だ(だからこそ、相手が目の前からいなくなっても「悪の相手」というものが変わらずに残り続ける)。

 

相手が目の前にいようといまいと、私たちは自分の思い込みを通して相手を捉えているため、その相手に怒り、その相手を攻撃するということは、自分の想像に怒り、自分の想像に攻撃しているということになり、それは自分自身に怒り、自分自身を攻撃しているということになる。

 

よって怒りは自傷行為でしかなく、自己否定でしかなく、だから怒ると苦しみが生じる。

 

このことに気がつかないと、自分は物事を正しくありのままに捉えることができると思っている、思い通りに行かないことが起こる、人のせいだと思い込み怒り狂い人を責める(=自分を責める)、苦しくなる、人のせいで苦しいのだとより人に対して怒り狂う(自分を恨む)、苦しくなる、あいつさえいなくなればと恨み続ける(=自分を恨み続ける)、苦しみ続ける、という無限ループにはまり込んでしまう。

 

私たちは物事をありのままに見ることができない。

自分の思い込みでしか物事を捉えることができない。

 

このことを受け入れて、自分風の思い込み、自分風の偏り、自分風の色付け、自分風のラベリング、自分風の線引き、自分風の条件づけ、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の主観的なものに自覚的である必要がある。

 

物事は「自分にはこう見える」「自分にはこう感じられる」というのが限界で、「自分にこう見える」「自分にはこう感じられる」からといって「それが本当にありのままにそうである」ということではないかもしれない、ということに自覚的である必要がある。

 

声出して切り替えていこうと思う。