私たちは、物事をあるがままに見ているつもりでも、実はある種の「レンズ」を通して見ているということであった。そして、そのレンズこそが、私たちの世界観をつくり出し、私たちのすべての行動を方向づけているのだ。
スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』
私たちが誰かを非難したり罵声を浴びせたりする時(心の中であっても)、私たちはあたかもその相手のことを何もかも知っていて、相手の悪の部分をしかと見極めた上で「あいつは悪い人間だ」として攻撃していると思い上がっている。
しかし、実際に私たちは相手のことなど全くわかっていないし、相手の中で何が起こってるのか、相手がどのような文脈にいるのか、どのような過去を過ごしてきたのか全く把握できてない。
私たちは自分のレンズを通してでしか物事を見ることができないし、そのレンズは大抵の場合、自分に都合が良いように、自分にそう見えて欲しいように、自分がそう思いたいように物事を見せる。
つまり、私たちはあるがままの相手を見ておらず、むしろ見ることもできず、ろくすっぽ理解できていないにもかかわらず、自分には何となくそう見える相手をそうなんだと決めつけて、そうして自分が作り上げた相手の像を攻撃している。
「自分にはそう見える」という単なる主観や印象をガチムチの客観的な事実だと誤認し、それが真の相手の姿だと誤認して相手を攻撃しているということになる。
これが自分が人を攻撃する際のパッターン。
このパッターンがわかっていれば、逆に相手が自分を攻撃してきた時に少し冷静になれる。
私がありのままの相手のことをわからないように、相手もありのままの私のことはわからない。
私が「そう見える」程度のことしか相手のことをわからないように、相手も「そう見える」程度のことしか私のことをわからない。
(それが人間の認知の限界で、私たちが自分の主観を離れることは基本的にできない)
つまり、相手が私を攻撃している時、相手は私のことを十分にわかった上で攻撃しているのではない、ということになる。
私と同じように相手も物事をありのままに見ることができないのだから、相手には私が「悪い人間のように見えている」だけで、相手にそう見えているからといって私が「悪い人間」ということにはならない。
(確かに悪い部分はあるかもしれないが、それが全てでは決してない。この時に自分の悪の部分も自分の厳然たる一部分としてしかと受け入れていれば、自己否定が生じない分、苦しみも生じない)
相手が私を責めてきた時、相手にとって私は悪く見えている。
私たちは基本的に悪、つまり自分にとって都合の悪い人間は苦しめてもいい、むしろ罰して苦しみを与えること、あわよくば目の前から消し去ることが善であると思い込んでいるので、私のことが悪に見える相手はその私を当然のごとく苦しめようとしてくる。
しかし、相手が見ている「悪の私」というのは「実際の私」ではなく、それは相手自身のレンズを通して見て作り上げられた虚像でしかなく、相手はそうとは知らずに、それを客観的な実体、事実であると思い込み、その虚像を攻撃しているのだけれど、その虚像は相手自身のレンズでしかない。
つまり、相手は私を攻撃しているようで自分が作り上げた虚像を攻撃しており、その虚像は自分の心の一部分であるため、結局は自分の心を攻撃しているということになる。
このことがわかれば、相手が激おこプンプン丸で、自分のことを責め立ててきたとしても、その人には私が悪に見えているんだなー、そういう風に見える虚像を攻撃しているんだなー、そういう風にして自分を攻撃して苦しいだろうなー、と憐れむことができる。
目の前で怒り狂ってリストカットを見せつけられているようなものだからな。
ブッダ先輩やキリスト先輩がよく相手を憐れむのはこのことがわかっているからなのだろう。
まぁ、私たちの場合、そういう風にして自分を攻撃しても苦しいだろうなー、と思うと、その次は、まじでざまぁ、と思ってしまうのが関の山なのだろうけれど、相手を責める傾向の強い人は遅かれ早かれ相手を責める人同士で責め合って苦しめ合うことになるため、自分が責められたら責め返すとようにわざわざ応戦してその苦しみのループにはまり込む必要はない。
清らかに憐れむことはできなくても、まずは素直にざまぁと思い、ざまぁと思ってしまった自分を正当化することなく、そういう風にざまぁと思ってしまう醜いところが自分にはあるなーと反省しつつ、醜い自分の部分を受け入れていく機会にしたほうがよほど有意義だ。
今日も一日、自分も人もレンズ越しに見える虚像で溢れた世界で生きていくことになる。
声出して切り替えていこうと思う。