今お前はここから千五百マイルも離れたところにいるが、気持ちは相変わらずだろう。なぜなら、お前はあらゆる問題の元凶を丸々持ったまま旅立って行ってしまったのだからね――つまりお前自身を。お前は、心も体もなにも問題ない。お前をぼろぼろにしてしまったのは、お前が巡り会った状況なのではない。むしろ状況に対するお前の考え方なのだ。「人は思ったとおりの人間になる」という。この意味が分かったらなら、お前はもう大丈夫だから帰って来なさい
D.カーネギー『道は開ける』
私たちは何らかの苦しみが生じた時に他人や周囲の状況にその原因を求めてしまうのだけれど、実際、自分が感じる苦しみの原因は自分の考え方にある。
同じ状況に直面した時も、それを不幸と捉える人と不幸と捉えない人が確実にいる。
例えば、私の職場では毎朝の短い朝礼がある。
その際に管理職が今日の予定等を伝えることがあるのだけれど、ある管理職は予定表を見忘れていたりする。
今日の予定表を見忘れる、このことについてある嘱託職員(OB)は「あんなの管理職じゃねぇ、ちゃんとしろよ」と毎朝カリカリしているという(私はその愚痴を事あるごとに聞かされる)。
しかし、一方で私や後輩は同管理職が予定表を見忘れていることについて何も思わない。心はすーっと凪状態で、後輩についていえば、むしろ微笑ましいくらいだという。
ちょっとしたことでもこれほどまでに苦しみの生じ方が異なる。
同OB職員は朝礼の度毎にカリカリし、その苦しみの原因を管理職のせいだと思い込んでいる。そしてその管理職を責めて改善すれば原因は解消され、自分は苦しまないと思い込んでいる。そして管理職を面と向かって責めることができないため、私に愚痴を吐き出しているというわけでござる。
同OB職員は、管理職たるものこうじゃないといけない、ああじゃないといけない、というビッジョーンなり基準なりをはっきりともっている、そのビッジョーンにそぐわない、あるいはその基準を満たさないと、ダメな管理職というレッテル張り、「ダメな人間」を批判することによって「おれはあいつと違ってできる人間なんだ」「おれはあいつと違って価値のある人間なんだ」ということを確認、証明、アッピールしようとしているのだけれど、この一連の思考パッターン自体が苦しみを生じさせている。
状況に対する考え方、自分の考え方の癖、思考パッターン、これらによって苦しみの有無が確実に決まる。
他人が原因で自分が苦しんでいる、という因果関係は「自分は正しい人間」「自分は善良な人間」「自分はできる人間」という前提に立つことができるので容易に受け入れやすい。
一方で、自分が原因で自分が苦しんでいる、という因果関係は「自分は間違っているかもしれない」「自分には邪悪な部分があるかもしれない」「自分にはできないところがあるかもしれない」という受け入れたくない事実を受け入れていく必要があり、これまで「きれいな自分」というイッメージに固執し、「きれいではない他人」を批判していた分だけ、なかなか受け入れづらい。
受け入れようとすると、そういう自分の不完全な部分がなくなればいいとして、自分を自分で責めたり攻撃したりして、意地でも「きれいな自分」というところに立とうとしてしまう。(これは、都合の悪いものは責めてなくそうとする思考パッターンが自分に向いているだけに過ぎない)
だがしかーし、自分は「きれいな人間なんだ」「善良な人間なんだ」「できる人間なんだ」という思い込み、そのためにはああじゃないといけない、こうじゃないといけないという義務感が自分を傷つけ、時には他人を傷つけ、自分の心身はボロボロになり、他人も離れていき孤立無援状態になってしまう。
「善良な人間」「正しい人間」「できる人間」「きれいな人間」になろうと心がけること自体は素晴らしいことなのだけれど、そのための努力が自分にムチを打ったり他人を見下したりすることであるならば、それはただただ自分に苦しみを生じさせ、実際は「善良な人間」「正しい人間」「できる人間」「きれいな人間」から離れてさせていくだけの所業でしかない。
やはり一番の理想は、良いものも悪いものも楽勝で受け入れられる状態、自分にとって良いとか悪いとかが事実上存在していない状態なのだろうけれど、私たちはどうしてもこれは良い、これは悪い、と色づけをし、良いからかき集めては握りしめて執着する、悪いから徹底的に否定し攻撃し粗末にする、ということをやってしまう。
せめてこの傾向に自覚的であるだけでもよしとしようと思う。
声出して切り替えていこう。