おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

番号だけの自分を大事にできるか

大多数の被収容者は、言うまでもなく、劣等感にさいなまれていた。それぞれが、かつては「なにほどかの者」だったし、すくなくともそう信じていた。ところが今ここでは、文字通りまるで番号でしかないように扱われる(より本質的な領域つまり精神性に根ざす自意識は、収容所の状況などにはびくともしなかったのは事実だが、どれほど多くの人びとが、どれだけ多くの被収容者が、そうした確乎とした自意識をそなえていただろうか)。ごく平均的な被収容者は、そうしたことをさして深く考えることも、それほど意識することもなく、なりゆきにまかせてとことん堕落していった。

 堕落は収容所生活ならではの社会構造から生じる比較によって、まぎれもない現実となる。わたしの念頭にあるのは、ある少数派の被収容者、カポーや厨房係や倉庫管理人や「収容所警官」といった特権者たちだ。彼らはみな、幼稚な劣等感を埋め合わせていた。この人びとは、「大多数の」平の被収容者のようには自分が貶められているとは、けっして受けとめていなかった。それどころか、出世したと思っていた。なかにはミニ皇帝幻想をはぐくむ者もいた。

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』

 

私たちは自分ではないもので自分を「なにほどかの者」として規定しようとして必死に頑張っている。

 

そして自分を「なにほどかの者」とガチガチに信じ込み、時としてそれを鼻にかけ、人を見下したりバカにしたりしている。

 

今の自分を「なにほどかの者」、言い換えれば「価値のある自分」として規定してくれているものは何であろうか。

 

名前、年齢、性別、職業、預金残高、外見、趣味、年収、財産、ブランド品、住んでいる地域、人間関係、雇用形態、結婚、フォロワー数、宗教、恋愛、地位、名声、美貌、肉体、知能、健康、出身校、偏差値、才能、特技、所属企業、趣味、持ち物、経験、記憶、出身地、学位、肩書、作品、結果、実績、勝利、生活様式等々。

 

しかし、それらはナチスの前ではことごとく無視され、なきものにされ、単なる番号に帰される。

 

「これが自分なんだぽよ」と思うために自分を規定してくれていたものが一切合切奪われ、無視され、単なる番号として再定義される。

 

どうしてそんなことができるのかというと、自分を定義づけているものは自分ではないからだ。

 

自分ではないものは切り離すことができるし、書き換えることができるし、置き換えることができる。

 

ナチスは全てを奪って番号に置き換えた。

 

もちろん、ナチスが付与する番号も自分ではない。

その番号はこれまで自分を定義していたものに代わって新たに自分を定義するものに過ぎない。

 

今、自分だと思っているもの、自分を定義づけているものをナチスによって奪われ、無視され、単なる番号付きの肉塊として扱われたとしても、それでもなお、死なない限り、そこに自分は存在している。

 

果たしてその自分、自分を定義するものが番号しかない自分は何なのか。

 

その際に自分は何者でもない単なる番号呼ばわりされる自分を大事にすることができるだろうか。

 

こんな自分は自分ではないでやんす、と自分で自分を見捨てることなく、自分で自分の存在を肯定し、自分に対して温かい思いを起こし続けることができるだろうか。

 

ヴィクトール・E・フランクル先輩が「精神性に根ざす自意識」、「確乎とした自意識」と呼んでいるものは、自分ではないものの価値と自分自身の価値とを混同していない状態、世間的に価値があるものとされているものの価値と自分の存在価値を切り離している状態を指す。

 

端的に言えば、その状態は人から王のように扱われようとゴミのように扱われようと、自分にとっての自分の大切さは変わらず高いまま一定の状態であるということだ。

 

自分を自分として定義しているものが奪われる、失われていくというのは何もナチス強制収容所だけで起こることではなく、諸行無常の理によって私たちの日常でも楽勝で起こる。

 

自称大企業の執行役員であっても、定年となり、ただの無職になる。

自称金持ちであっても、詐欺られて無一文になる。

自称天才でも、老齢により痴呆になる。

自称ゴリマッチョでも老齢と病気によりやせ衰える。

自称美男美女であっても加齢によりただのおじさん、おばさんになる。

自称経験豊富であっても痴呆により全てを忘れる。

自称百戦錬磨でもいずれは敗退する。

自称マイホーム持ちであっても、地震よって一瞬でホームレスになる。

 

(究極的には老いと病と死によってこれまで自分を定義していたと思われる価値のあるものを全てを失い、世間的に価値のあるものとされているものを一切もち合わせていない自分になり果てる。)

 

自分を定義づけているものを失った時に堕落するのか否かは、人の存在価値の有無を世間的な価値の有無で決めているかどうかによる。

 

働いていることには世間的な価値がある。

よって働いている自分には世間的な価値があり、世間的な価値があるために存在価値もある。

 

そして、働いていない人間に世間的な価値はない。

よって働いていない人間は世間的な価値がないために存在価値もない。

 

こう考えている人が、失職し、働くことができない状態が続いたとすると、こんな自分はダメな人間であるとして、自分がこれまで働いていないことを理由に他人を蔑んできたように、他人から蔑んでいるように感じてしまい息苦しくなる。

そして何よりも、自分自身がこんな自分は価値のない人間なんだと自己否定に走り苦しむ。

 

この自己否定も堕落の一種なのかもしれない。

 

だから強制収容所で全てを奪われた被収容者の中には、こんな自分には世間的な価値はない、だから存在価値はない、として収容所の高圧電流鉄線に身を投げて自らの命を断った人がいたのかもしれない。

 

自称先進国日本においても自殺が絶えないのは、世間的な価値と存在価値を結びつけたり、混同したりしているために、世間的な価値を失ったり、ない状態の自分を肯定することができずに、世間的な価値がない自分には存在価値はないとして自分で自分を見捨てているためなのかもしれない。

 

また、もう一つの堕落としてヴィクトール・E・フランクル先輩が挙げているのが、優越感への飽くなき執着だ。

 

自分を「価値のある人間」として定義してくれるもの、つまりそれを根拠に他人を見下すことができる優越感を与えてくれるもの(結局私たちはそういうものをかき集めようとネバギバの精神で頑張っている)、それらを失っても、何か別の優越感の根拠を見つけ出し、再びそれを根拠に他人を見下すことによってどうにかして「自分は価値のある人間なんだ」ということを感じようとする側面が私たちにはあるということだ。

 

収容所に収容される前の肩書で優越感を得ることができなけば、収容所内の係の肩書で優越感を得ようとする。

 

スポーツ選手として優越感を得られなくなったら、政界に進出して権力で優越感を得ようとする。

 

若さで優越感を得られなくなったら、ビジネスで優越感を得ようとする。

 

年収で優越感を得られなくなったら、正義で優越感を得ようとする。

 

結局、私たちの多くは優越感を感じ、人を見下し、相対的に自分の価値を確認しなければ自分の存在を肯定できない(厳密にいうとそれは自己否定なので苦しいだけなのだけれど)。

 

優越感のための生活、人を見下すための生活は、うまくいっている間は高揚感をもたらしてくれるかもしれないが、諸行無常の理によって、その人を見下している根拠なるものはいずれ失われてしまうのだから、その根拠が少しでも揺らいだり、崩れたりすると、それまでに自分が人を見下してきた分の冷酷な思いがそのまま自分に跳ね返ってきて苦しむことになる。

 

若い時にハゲを愚弄していると、いざ自分が年を取ってハゲた時に、過去にハゲを愚弄していた分だけ、自分に苦しみがやってくるようなものだ。

 

世間的な価値と自分の存在価値を区別しておらず、連動させているために、優位な存在でなければこの世に存在してはいけないという発想、優位な人間は劣位な人間を粗末に扱ってもいいという発想が生まれてきてしまうのだろう。

 

「バラ」という名称が「バラと呼ばれている花の本質(赤くていい香りがする等)」を規定できないように(仮に「バラと呼ばれている花」の名称が「鼻くそボンバー」であっても、「バラと呼ばれている花」の赤くていい香りがするという本質は変わらない)、自分が今の自分を規定していると思っているもの、世間的な価値は実は自分を本質的には規定できない。

 

だから世間的な価値(名称)で自分の存在価値(本質)を決めることはできないし、決めてはいけない。

 

決めるような発想をすると自分がただただ苦しむだけだ。

 

もしも世間的な価値と自分の存在価値を連動させてしまったら、せっかくガス室送りにならなくて済んでいるのに、強制収容所内で自分を見失い日々を生き延びることができなくなる。

 

ナチスの脅威はなくなったとしても、自分を定義しているものが奪われること、失うことは普通にあり得る。

 

自分について特定のイッメージを抱き、自分はこういう人間だと思い込んでいたのに、そうではなくなった時、自分が「何ほどかの者」から「何者でもない者」になった感じがした時は、世間的な価値と存在価値をきちんと区別し、自分の本質を大事にして強制収容所を生き延びたヴィクトール・E・フランクル先輩を思い出すといいのかもしれない。

 

声出して切り替えていこうと思う。