おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

優越感に飢えていないか

今になって思えば、明男の存在が石本の中にあった龍の卵を孵化させたのだろう。打ちのめされた心の隙間から溶岩が流れ、その熱によって龍が誕生した。石本は自分の傷を認めたくなかった。自分が誰よりも優れているという自覚を失わないために、人生から手を抜いた。建築から目を背け、明男から目を背け、龍から目を背けた。ダンスホールに通い、遊び人として振る舞うことで精神を安定させた。断固たる意志で、明男に劣っていることを認めまいとした。

 

支那の古典、「人虎伝」によれば、自尊心の高さゆえに李徴は虎になったというが、石本の高すぎる自尊心は虎というよりも龍のようだった。ひと鳴きで雷雲を呼び、龍巻となって天空に飛翔する。喉元の逆鱗に触れると、逆上して暴れまわる。

 龍から目を逸らすために始めた共産党の末端組織である「細胞」の活動は、石本の心にある種の平穏をもたらした。明男とは違う「正しい」やり方で革命を起こすことが、自分の責務だと考えるようになった。明男と自分を比較することをやめてから、ようやく龍は深い眠りについた。

 

自分は学業や建築よりも崇高な闘争をしているのだ、という自負が、石本が飼っていた龍の餌となった。龍は満足し、静かに眠りについた。

小川哲『地図と拳』

 

私たちは、誰が上で誰が下なのか、誰が優等で誰が劣等なのか、誰が価値があり誰が価値がないのか、そのような上下や優劣や価値の有無に囚われて生活している。

 

そして、誰もが、自分は上の人間である、私は優等な人間である、私は価値のある人間である、ということをアッピールするために証明するために頑張っている。

 

言い換えると他人を見下せるようになるために頑張っている。

 

小説の中の石本という男は実際に学業において優秀だったのだろう。

 

そして、彼の中には私たちと同じように、上下や優劣や価値の有無で人を区別する心があった。

 

そして学業における自分の優秀さを根拠にして、自分は「上」「優秀」「価値がある」というところに立ち、「下」「劣等」「価値がない」とみなした人のことを見下し、馬鹿にしていた。

 

他人を見下すことによって、自分は価値のある人間なんだというセルフイッメージを保つことができていた。

 

しかし、そんな中、どう考えても自分よりも遥かに優秀な明男という自分が現れた。

 

すると石本はどうなったか。

 

これまでの自称「上」「優秀」「価値がある」が、自称「下」「劣等」「価値がない」に変わってしまった。

 

そして、かつて自称「優秀」だった自分が、「下」「劣等」「価値がない」とみなした人のことを否定し、見下し、馬鹿にするという冷たい思いを起こして優越感に浸っていたからこそ、自分が「下」「劣等」「価値がない」となった瞬間に、これまでの自分の冷たい思いが一気に自分にふりかかってきて、劣等感に苛まれ、自分の心を打ちのめし、自分の心を傷つけまくった。

 

明男は石井に対して何もしていないし特段何も思っていない、周囲の人間も石井に対して何もしていないし特段何も思っていない、にも関わらず、石井は苦しんだ。

 

それは誰のせいでもなく、自分の思考パッターン、自分がこれまで起こしてきた心の思いによって苦しんだ。

 

石井の中には「上」「優秀」「価値がある」ということに執着心があり、「下の者」「劣等な者」「価値がない者」に対して否定的な思いがあるため、自分に「下」「劣等」「価値がない」ということを突きつけられるようなことがあると、自己嫌悪や自己否定が生じ、とんでもなく苦しくなる。

 

だから、自分に「下」「劣等」「価値がない」ということを突きつけてくるものから目を逸し、欲に流れて、現実を誤魔化した。

 

そして、学業や建築という領域で「上」「優秀」「価値がある」という立場に立てないのであれば、何か別の領域(小説の中では政治活動)で「上」「優秀」「価値がある」というところに立とうとした。

 

そうして別の形で優越感を得ることによって、心を安定させようとしている。

 

いずれにしても、上下や優劣や価値の有無に囚われて、いかに優越感を得られるかを軸にして日々を生きている。

 

ここでのポイントは、この上下や優劣や価値の有無というのは絶対的に定められたものではなく、自分で勝手に生み出しているものであるということだ。

 

自分の中で勝手に「下の人間」「劣等な人間」「価値のない人間」というものを作り出している。

 

自分の中で勝手にその人たちを否定・攻撃して優越感を得ている。

 

そして、諸行無常の理によって、自分自身が自分の基準の中で「下の人間」「劣等な人間」「価値のない人間」に該当するようなことがあると、優越感を得ていた分だけ劣等感に苛まれ、自分で自分のことを否定・攻撃し、苦しんでいる。

 

そして、その苦しみから逃れるために、欲に走るなり、何か別の優越感を求めるなりしようとしている。

 

このように優越感を強迫的に求めるのは、価値がないものへの強烈な否定がある。

(この「価値がない」というのも自分が勝手に作り上げた幻想に過ぎない)

 

価値がないものは存在してはいけない、という思考パッターンの下では、価値がないものは否定され攻撃される対象であるため、価値のあるものにならなければならないという強迫観念が生まれる。

 

低収入の人を否定しているから、高収入でなければならないという強迫観念が生まれる。

勉強が苦手な人を否定しているから、秀才でなければならないという強迫観念が生まれる。

ブサイクな人を否定しているから、美人でなければならないという強迫観念が生まれる。

独身の人を否定しているから、結婚しなければならないという強迫観念が生まれる。

悪人を否定しているから、善人でなければならないという強迫観念が生まれる。

 

自分自身が「価値がない人間」のことを否定しているから、「価値がある人間」にならなければならないという強迫観念が生まれる。

 

(何度も言うが、「価値がある」「価値がない」というのは、個々人の任意の基準に基づき、個々人が任意に生み出した任意な区分けでしかないぜ)

 

このような強迫観念に突き動かされて、自称「価値のある人間」になり優越感を得られたとしても、それは一的なもので、強迫観念自体がなくなるわけではないので、「価値のない状態」になってしまうかもしれないという不安と恐怖は常にあるし、自称「価値のある状態」を維持していくのが辛くなってくるし、諸行無常の理によって自称「価値のない状態」に落ちってしまった場合は、劣等感に苛まれて、自己嫌悪や自己否定が生じ苦しむことになる。

 

そしてその苦しみを誤魔化すために、刹那的な快楽に溺れたり、劣等感から脱却するために他人や社会を否定することによって「正しい自分」というものを証明し、別の形で優越感を得ようとする。(カルト的な宗教や政治運動はその最たるものなのかもしれない)

 

このような強迫観念や苦しみの根源は、人を「価値のある人間」と「価値のない人間」に分け、「価値のない人間」とみなした方を否定・攻撃する思考の癖にある。

 

上の人間、優秀な人間、正しい人間、善良な人間、価値のある人間の存在しか認めないという潔癖な思考パッターン、下の人間、劣等な人間、間違った人間、邪悪な人間、価値のない人間の存在を認めないという不寛容な思考パッターンにある。

 

自分勝手な基準、自分勝手な区分け、自分勝手な思い込み、自分勝手な否定。

 

全部自分の思考パッターンや。

 

優越感に飢えているとしたら、一度自分の思考パッターンを見直す必要があるかもしれない。

 

声出して切り替えていこうと思う。