どんなに目を凝らしているつもりでも、目に映る世界は、見る人の知識や経験によって大きく歪められます。
人間が景色をとらえるときには、無意識のうちに目を上下左右に動かして、複数の角度から見た世界を、脳内で「1つの景色」として再構成しているにすぎないのです。
末永幸歩『13歳からのアート思考』
私たちの日常的な大きな勘違いとして、「私たちは物事をありのままに見ている」と勘違いしているということがある。
本当は物事を歪めて見ているのに、それをそのまま本当にそうなんだと勘違いし、その勘違いを前提にして日々を過ごしている。
例えば、視覚であるならば、私たちは目で対象をとらえ、その対象を脳内で再構成し、そうして再構成された対象の映像を見ているに過ぎない。
私たちは自分の脳内で再構成された映像と、目で捉える以前のありのままの対象との区別ができず、自分の脳内で再構成された映像をありのままの対象であるとどうしても思い込んでしまう。
そして、何かを再構成する際には、一人ひとり再構成の仕方なりクセなりが異なるため、同じ対象であっても一人ひとりその見え方が異なってくる。
客観的に何の変哲のないものであったとしても、ある人にはよく見え、ある人には悪く見えるということはよくある。
いずれにしても、私たちが捉えているものは現実から必ずかけ離れている。
現実そのものではない。
「私にはそう見えるもの」でしかない。
そして、その見え方、現実からのかけ離れ方というのは自分にとって都合のいいようなものであることがほとんどだ。
誰かのことが悪く見え、その人のことを良い側面もあるにも関わらず悪い人間だと決めつけてしまうのは、自分の善良さや正しさや有能さを感じたいからだ。
あの人はああいう人間だ、私はこういう人間だ、と決めつける。
(私たちは自分のことさえもありのままに捉えることはできず、自分にとって都合のいい捉え方をしてしまう)
間違っている他人、悪の他人というイッメージを脳内で再構成し、そのイッメージを目の前の相手と重ね合わせ、責め立てる。
正しい自分や善良な自分というイッメージを脳内で再構成し、それを自分であると思い込んで悦に浸る。
相手のことも自分のことも実際にはよく見えておらず、ただの思い込みを間違いないものとし、それを前提に日々を送っている。
そして自分が思い込みで世界を見ているように、他人もまた思い込みで世界を見ているため当然両者は食い違う。
他人の思い込みをどうにかするのは至難の技であるため、まずは自分が思い込みでしか世界を見ることができないことに自覚的である必要がある。
自分が捉えているものは全て自分の脳内で再構成されているものであり、捉えている対象がありのままに再構成されることは決してないということ、必ずそこには歪みや偏りや決めつけや自分の都合が混在しているということに自覚的である必要がある。
自分は物事をありのままに捉えることができない、このことを前提とすると、自分の物事の捉え方や相手の物事の捉え方に一定の敬意を払うことができる。
自分にはこう見えるのかー、相手にはそう見えているのかー。
どうして自分にはそう見えるのかしらん、どうして相手にはああ見えるのかしらん、と考え、自分のことや相手のことをよく考えられるようになる。
そう見えるからといって、そのものがそうであるということにはならないため、相手の話や意見に耳を傾けることもできる。
(逆に思い込んでいると、相手の話を聞く必要性を感じないため、相手の話を聞かない)
私もいまだに人のある言動だけをもってして、その人のことをこういう人間だと決めつけてしまうところがある。
その人がどういう人間なのかということは、実際にはわかるはずもなく、それは私の浅薄な思い込みに過ぎない。
私にはその人のことが「そう見えている」に過ぎない。
私にとって「そう見えている」からといって、その人が「そうである」ということには決してならない。
だけれどどうしても決めつけてしまう。
どうして私にはその人のことがそう見えるのかしらん?
そしてそう見えているものに対して私はどのような感情を起こしているのかしらん?
その人を通して見えるものは自分の側面でもある。
自分の中にあるからこそ、再構成される際に混入され、それが見えるようになる。
その側面に冷たい気持ちを起こすということは、自分に対して冷たい気持ちを起こすということで、それが苦しみをもたらす。
反省だな。
声出して切り替えていこうと思う。