おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「品性下劣ではない」ということ

アメリカからは多くの新製品が渡来した。しかしなかでも前例を見ない、驚異の新製品は、品性下劣な貧民の大群である。自分を愛するすべを知らぬ彼らは、他人を愛することもない。

 

トラウトは金のなる木をテーマにした本も一冊書いている。その木は、葉のかわりに二十ドル札をつける。花は国債、果実はダイヤモンドである。人間たちはそれに魅せられ、根の周囲で殺し合いをする。死体は良質の肥料となる。

 そういうものだ。

カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5

 

品性下劣というのは、自分を愛するすべを知らないということだ。

 

そして自分を愛するということは自分のことを大事にするということになる。

 

しかし、私たちは「こういう自分は大事にする」「こういう自分は大事にしない」というように自分を大事にする条件を設けている。

 

「価値のある自分は大事にする」「価値のない自分は大事にしない」という条件を設けている。

 

そして自分に価値があるかどうかというのは自分なりの価値基準に基づいて決められており、「金や資産の有無や多寡」がその基準になりやすいというのが資本主義の今日を生きる我々多くの現状だろう。

 

金や資産があれば自分には価値があり、価値のある自分は大事にする。

金が資産がなければ自分には価値がなく、価値のない自分は大事にしない。

 

世間的に価値のあるものの有無や多寡、つまり金や資産の有無や多寡で自分の価値を規定する。自分ではなく他人の価値も規定する。

 

そうなると、世間的に価値のあるもの、つまり金や資産をより多く手に入れたほうがその分だけ自分の価値は高めることができ、逆にそれらを他人が手に入れると、自分の取り分が減り、その分だけ自分の価値を高められなくなる。

 

世間的に価値のあるもの、金や資産にによって自分の価値が規定されるという価値観の人は、だからこそ、金のなる木の周囲に集まり、根の周囲で殺し合いをする。

 

これはこれで一つの価値観であり、生き方であるため否定するものではないが、このような価値観でこのような生き方をすると苦しみ続けることは間違いない。

 

諸行無常の理によって変動し一時的で相対的で老病死を通じて確実に失われ、自分の手元を確実に離れていく世間的な価値をもってして自分の価値を規定しているのだから、いつ何時自分の価値が激減し「自分が自分のことを大事にしなくなる」という不安と恐怖が消えることはないからな。

 

これがいわゆる「品性下劣」、つまり自分を大事にするために条件を設けている人のパッターンということになる。

 

んじゃあ、「品性下劣ではない」ということはどういうことかというと、自分を大事にするために特に条件を設けていないということだ。

 

世間的に価値があるものの有無や多寡によって自分の価値を規定しない。

世間的に価値があるものの有無や多寡とは全く関係なく、自分には価値があり、自分は大事であり、自分を大事にする。

 

金や資産があってもなくても自分は大事。

金や資産を多く持っていようがほとんど持っていまいが自分は大事。

自分に善良な部分があろうが醜悪な部分があろうが自分は大事。

 

(これは自分には金がない、醜悪な部分があるという事実を楽勝で認めた上で、自分は大事ということであって、自分は大事だからといって金がないことや醜悪な部分があることが正当化され推奨されるわけでは決してない)

 

世間的に価値があるものと自分の価値が完全に分離されていて(あるいはその両者のつながりが希薄で)、世間的な価値の変動の影響を全く(あるいはほとんど)受けることなく、自分の価値が保たれている。

 

この状態だと金や資産があろうとなかろうと自分を大事にすることができる。金のなる木の周囲で殺し合いを繰り広げなくても自分を大事にすることができる。

 

(ちなみに自分を大事にするということはナルシストとは全く異なる。ナルシストは綺麗な自分のイッメージしか認めないし、そのイッメージしか見えていない、実際の自分を見ようとしないし、都合の悪い自分の側面は切り捨てようとする)

 

この状態を「品性下劣ではない」という。

 

この状態だと、諸行無常の理によって世間的に価値があるものがどれだけ変動しようと、自分の価値は変わらず、それ故に自分で自分のことを大事にし続けることができるため安心して心穏やかに暮らしていける。

 

世間的に価値があるものをかき集めるために自分にムチを打って無理をする必要もなく、せっかく手に入れた世間的に価値があるものが失われていくことを恐れたり不安に思ったりすることもなく、自分にはまだまだ世間的に価値があるものが足りないと強迫観念に駆られることもない。

 

「品性下劣ではない」方が明らかに苦しみから解放されている。

 

今の自分は「品性下劣」かもしれないが、理想は「品性下劣ではない」生き方の方がいい。

 

そして、「品性下劣」な生き方から「品性下劣ではない」生き方に切り替えていく方法は、自分の持ち物を「使っているもの」と「使っていないもの」に分けて「使っていないもの」を捨てることだ。

 

基本的に使っていないものというのは自分のことを「価値のある自分」(「おしゃれな自分」や「金持ちの自分」というイッメージ)として規定するために手に入れたもの、あるいは「価値のある自分」というものを規定し続けるために持ち続けているもの(若かった時の自分を規定し続けるための服や自分の知性を証明してくれそうな本の集積など)で、そのようなものを実際に手放してみると、自分の価値は何も変わらないということがだんだんとわかってくる。

 

これまで自分を規定してくれていたと思っていたものが、実は何も規定していなかったということがわかってくる。

 

さらに、諸行無常の理によって、自分は当然変化していき、自分が変化していくとともに自分が使うものというのも変化していくし、これまで使っていたものが壊れたりして使えなくなっていくということもなる。

 

そのような中で、使っていないものを捨てていくと、自分が使っているもの=自分が持っているものが本当に変化しているということに気がつく。

 

すると自分の持ち物が変わっても、自分は何も変わらないということに気がついてくる、今自分が使っているもの、つまり今の自分を規定していると思っているものもいずれは使えなくなり使わなくなり自分の手元から離れていくということがだんだんとわかってくる。

 

ということらしい。

 

仏教まじでやべぇ。

 

声出して切り替えていこうと思う。