おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

消費をやめるための整理

なかでもボードリヤールが注目するのは労働である。現在では労働までもが消費の対象になっている。どういうことかと言うと、労働はいまや、忙しさという価値を消費する行為になっているというのだ。「一日に一五時間も働くことが自分の義務だと考えている社長や重役たちのわざとらしい「忙しさ」がいい例である」。

 

労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象となる。自分が余暇においてまっとうな意味や観念を消費していることを示さなければならないのである。「自分は生産的労働に拘束されてなんかないぞ。」「余暇を自由にできるのだぞ」。そういった証拠を提示することを誰もが催促されている。

 

余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学

 

 

ここでいう消費というのは「自分は価値のある人間であるということを示す記号をかき集める」という意味だ。

 

例えば、パスタ。

 

空腹を満たすためにパスタに時間とお金と労力を費やすと、食欲には限界があるので、満腹になった途端、パスタへの欲求は止まる。

ボードリヤール先輩に言わせると、これは「浪費」と呼ばれる。

 

しかし、そのパスタが「こんなにおしゃれな店のこんなにおしゃれなパスタを食べるこんなにおしゃれな自分」というイッメージを作り上げるための手段=記号であれば、それは形をもたない観念的なものであるためにきりがない。

よってどんなにパスタに時間やお金や労力を費やしても満足することなく、自分を「おしゃれな自分=価値のある自分」と規定してくれる「おしゃれなパスタ」という記号を延々とかき集め続ける(記号として必要なだけなので別に食欲を満たすために食べる必要もない)。

ボードリヤール先輩に言わせると、これは「消費」と呼ばれる。

 

たしかに私も、使わないにも関わらず、自分を価値のある人間と規定するために服やスニーカーや本やフギュアをかき集めていた時期があったなー。

 

ものを多く持っていれば持っているほど価値のある人間になれるんだと思っていた時期があったなー。

 

これを手に入れたら、なんとなくいい感じの自分になるというイッメージを抱く。

そして実際に手に入れると、別に何も変わらない。

そして手に入れたものには見向きもせずに、また別の「なんとなく自分をいい感じにしてくれそうなもの」を欲しくなる。

 

全くもってしてあほんだらだったぜ、ベイビー。

 

そして現代においては労働や余暇も消費されている。

 

「価値のある自分」というイッメージを規定するために長時間労働に従事し、「忙しさ」という記号を強迫的にかき集める人もいれば、「価値のある自分」というイッメージを規定するために「充実した休日」という記号を集める人もいる。

 

つまり、それが「パスタ」であろうと「労働」であろうと「余暇」であろうと、自分は価値のある人間であるとアピールするためにかき集めているもの、その手段となり得るもの全てが際限のない消費の対象となる。

 

私たちの多くは「価値のある記号」を際限なくかき集め「価値のある自分」というイッメージをどうにかして作り上げようとしている。

 

「私は価値のある人間なんだぽよ」ということをネバギバの精神で周囲に証明しようとしている。

 

どうしてなのかしらん?

 

それは根本的に自分のことを価値のない人間だと思っているからだ。

 

そして、こんなに価値のない自分は人から否定される、嫌われる、見下される、馬鹿にされる、見捨てられると思っている。

 

(しかし、周囲の人間が実際にそんなことを思っているわけではなく、自分自身がそんな人間を否定し、嫌いになり、見下し、馬鹿にし、見捨てるからこそ、人も自分と同じように思うに違いないと思っているだけに過ぎない)

 

逆に周囲に自分のことを「価値のある人間」と認知させることができれば、自分は嫌われることはないし、見下されることはないし、馬鹿にされることもないと思っている。

 

だから「価値のある記号」となり得るものをかき集めて、周囲に自分をことを「価値のある人間」としてアッピールすることに全力を尽くすようになる。

 

自己肯定感の低さと価値がないものへの否定が根本にはある。

 

「ブランド品」という記号で自分を規定している人は、「ブランド品」のない自分のことを価値のない人間だと思っている。

「パスタ」という記号で自分を規定している人は、「パスタ」のない自分のことを価値のない人間だと思っている。

「忙しさ」という記号で自分を規定している人は、「忙しさ」のない自分のことを価値のない人間だと思っている。

そして、価値のない人間に対して冷淡な心がある。

 

自分のことを価値のある人間だとアッピールするために価値のある記号をかき集め続ける生活は、時間的にも金銭的にも労力的にもきりがないし、精神にとっても強迫的で、そこに心の平穏はない。

 

自分は今、「価値のある自分」というイッメージをアッピールするために、何をかき集めようとして必死になっているのか。

そして、「価値のない自分」を果たして自分は否定することなく大事にできるのか。

 

まずはそのようなことに気づいたり、考えたりする必要がある。

 

そしてその好機となるのが、使っていないものは捨てる、つまり整理という習慣だ。

 

「価値のある自分」というものを規定しようとしてかき集めたけれど、使っていないもの。

そういうものを捨てようとすると、「価値のない自分」になりそうで怖くなる。

人からよく見てもらえなくなってしまうのではないかと不安になる。

しかし、実際に捨てると何も起こらない。

もともと使っていないのだから当たり前なのだけれど、捨てる過程において色々と見えてくるものがある。

その過程で、自分がどのようなイッメージを周囲にアッピールしたかったのか色々と見えてくる。

 

私も今日、整理しますかね。