おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「リンチにかけてよい人間」と「リンチにかけてはいけない人間」

宇宙人の説によれば、新約聖書の物語の欠陥は、キリストがそのみすぼらしい外見とはうらはらに、事実<この宇宙におけるもっとも強大な存在の息子>だったことであるという。だから新約聖書の読者は、はりつけの場面まで来ると、必然的に次のような考えに傾いてしまうのだ。ローズウォーターは読み上げた――

「なんということだ――連中はとんでもない男をリンチにかけようとしている!」

 この考え方には、双子の兄弟分がある。「リンチにかけてよい人間はほかにいる」だれか?有力なコネのない人間である。そういうものだ。

カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5

 

私たちは無意識的に「リンチにかけてよい人間」と「リンチにかけてはいけない人間」を分けている。

 

上の引用で言うならば、神という強大な存在とコネをもっている人間は「リンチにかけてはいけない人間」で神という強大な存在とコネをもっていない人間は「リンチにかけてよい人間」ということになる。

 

より抽象的な言い方をすると「〇〇な人間は善人であり、善人は苦しめてはならない」、「〇〇でない人間は悪人であり、悪人は苦しめてよい」ということになる。

 

そして、ある人が「リンチにかけてもよい人間」「悪人」に該当すると判断した場合、あちしたちは持ち前の冷酷さと暴力性と独善性が発揮し、その人をリンチすることは正しいことであーる、その人を苦しめることは善であーるとし、自分は正しいところに立って、その相手を徹底的にフルボッコにする。

 

それが実際のリンチという形として行われようが、ワイドショーや新聞や週刊誌上で行われようが、自分の心の中だけで行われようが、それは関係ない。

 

それは根本的な思考パッターンなり思想なりの問題だ。

 

そして「ある人が〇〇かどうか」つまり「ある人が善人か悪人か」の判断は、完全に個人レベルの勝手な基準あるいは特定の集団レベルの勝手な基準によって異なり、そういうった勝手な基準によって決定される。

 

個人や集団のバラバラな基準によって善悪が決められていること。

そして悪は苦しめてもいいという根本思想。

 

これらの2つが相まって、壮大なスペクタクルでお送りするシナジーみたいな感じのニュアンス的な雰囲気っぽい塩梅のベクトル風のスタイルチックなスタンスの相乗効果を生み出し、日々の諍いから大戦争までの面倒な争いを招いてしまう。

 

恐ろしいのは私たちが「悪を苦しめることは善だ」と思っているということで、そうとしか思えないことで、その思考パッターン自体が実は個々人に苦しみをもたらしてしまう。

 

だからゴータマ・シッダールタ先輩は理由がどんなものであろうと、誰かを苦しめてもいいという思考パッターン、誰かを傷つけてもいいという思考パッターン自体を「悪」としている。

 

それはその思考パッターン自体が自分自身に苦しみをもたらすからまじでやめちゃいなよ、ベイビー、ということを伝えたいからであって、誰が「悪」かを規定して、その「悪人」を罰して苦しめてよいとしたいからでは決してない。

 

目の前に漂白剤があったとする。

 

実際に私たちには目の前の漂白剤を飲もうと思えば好きなだけ飲む自由がある。しかし、漂白剤を飲むと自分が苦しむということがわかっているために飲む者は誰もいない。仮に飲もうとしている人がいたら、まじでやめとけよベイビー、と必死になって止めるだろう。それでも飲み始めたら、うわー、気持ち悪いだろうなー、苦しいだろうなー、とこちらまで気持ち悪くなる。

 

そして、「悪を苦しめることは善だ」という思考パッターンは、ゴータマ先輩からすると、漂白剤をご馳走のように段違いな勘違いをしてがぶ飲みしているようなもので、いやいやいや、やべぇじゃん、まじで、そんなに自分を苦しめるようなことしてどないすんでやんす?ということなのだけれど、私たちには「悪とみなした人間」を苦しめることがご馳走にしか見えないのでどうしようもない、ぴえんだ。

 

自分の中で悪とみなした人を苦しめたり、傷つけたり、馬鹿にしたりする、あるいはそうしようとすることによって、「私はそんな悪人ではない、私は善人である、清廉潔白な人間である、正しい人間である、価値のある人間である」という一時的な高揚感や優越感を得ることができるので気持ちが良いからな。

 

私たちはどのような思想や思考パッターンを持とうと完全に自由なのだけれど、それぞれの思想なり思考パッターンなりには、漂白剤のように、取り入れたり内面化したりしてしまうと苦しみをもたらすものがある。

 

そのような漂白剤的な思想や思考パッターン、つまり自分に苦しみをもたらすものを「悪」とし、ゴータマ先輩は、私たちが漂白剤を飲もうとしている人を制止するように、「悪」はやめておけと言っているわけだ。

 

なので、ゴータマ先輩の言う「悪」をすると、その苦しみはゴータマ先輩や神や他人からもたらされるのではなく、その「悪」そのものからもたらされる。

 

漂白剤を飲んだ人は、漂白剤以外のものから苦しみを受けるわけではなく、漂白剤そのものから苦しみを受ける。だから自分が漂白剤を飲まなければ苦しまない。

 

私たちは他人や神や仏から苦しみを受けるのではなく、自分の思想や思考パッターンから苦しみを受ける。だから苦しみをもたらすような思想や思考パッターンから離れば苦しまない。

 

自分の中で勝手に「悪」を決め「その悪を苦しめれば自分の苦しみはなくなる、自分は幸福になる、世界は良くなる」という思想、思考パッターン。

 

この思想、思考パッターンこそが仏教で言うところの「悪」にあたり、漂白剤にあたり、自分に苦しみをもたらすものにあたる。

 

「リンチにかけてよい人間」と「リンチにかけてはいけない人間」がいる、このような前提に立っていないか、このような思考パッターンにはまり込んでいないか、指差し呼称をして確認する必要がある。

 

声出して切り替えていこうと思う。