おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

知らない内に身についている思考パッターンを洗い出す

人は育ってきた
生活環境によって
価値観や信念
考え方の基礎などの
非合理的な思い込みも
形成される

 

ものの見方・考え方は幼いころから周囲の人々との交流と社会的、文化的環境の中で教えられ、身につけるので、その環境では認められていたことになります。所属している家族、集団、組織、地域社会、国にうまく適応するには、周りの人たちの見方やふるまいを見習い、従って動く必要があり、それをしないと受け入れてもらえなかったり、排除されたりします。

平木典子著 星井博文シナリオ制作 サノマリナ作画『マンガでやさしくわかるアサーション

 

私たち個々人の思想は育ってきた生活環境の影響を大きく受けていることが多い。

 

そしてそのほとんどが非合理的な思い込みであったり、自分に苦しみをもたらすような思想になっている。

 

失敗した人間は責めてもいい

責めたら問題は解決される

〇〇な人間は価値がない人間だ

価値がない人間は粗末に扱ってもいい

常識は1つ

人と違うということはどちらかが間違いである

価値のあるものを手に入れたら価値のある人間になれる

醜いものを消し去れば綺麗になる

人間たるもの〇〇しなければならない、〇〇でなければならない

こういう人間はダメな人間である

ダメな人間は苦しめてもいい、傷つけてもいい、見下してもいい、見捨ててもいい

 

上記のような思想は、世界を価値のあるものと価値のないものに分け、価値のないものを否定する思考パッターンに当てはまる。

 

価値のないものを否定することにより、自分を価値のあるものに位置づけようとする思考パッターン、他人を見下して優越感を得ることを幸福であると思い込む思考パッターンに当てはまる。

 

私たちに苦しみをもたらすのは、必ずこのような自分の思考パッターンによる自己否定が原因だ。

 

それにより、自分に都合が悪い相手の存在を否定しては人間関係が乱れて苦しみ、自分に都合の悪い自分の部分の存在を否定しては自己否定により苦しむ。

 

そしてその思考パッターンはこれまで過ごしてきた環境によって形成されてきた部分が大きく、その思考パッターンでなければその集団内で痛い目にあってきたかもしれないので、その思考パッターンが身についてしまったことは致し方ない部分はあるのだけれど、その思考パッターンのせいで自分が延々と苦しみ続ける必要も全然ない。

 

どこかの段階で、自分が息を吸うように行なっている自分の思考パッターンに気がつき、この思考パッターンにより、自分の不安や恐怖や苦しみや強迫観念が生じている、ということに気がつく必要がある。

 

私たちには、これまで身を置いてきた環境によって、それぞれ異なった価値基準がある。

 

その価値基準をもとに、人を価値のある人間と価値のない人間に分け、価値のない人間に該当する人間は見捨てて当然という価値観を抱いている。

 

例えば、金持ちは価値のある存在であり、貧乏人は価値のない存在であるという、今日の資本主義の世界においては誰もが当然のごとく身につけているような価値観。

 

このような価値観を抱いている人にとって、この世界は「金持ちになると存在が認められ、貧乏になると存在が否定される」世界になる。

(自分の世界というのは自分が持っている価値観によってどうにでも変化するため、一人ひとりが実際に生きている世界は異なる)

 

その世界(その人個人の世界)では貧乏人の存在は否定される。

 

そして金持ちになればその不安が解消され、安心を得ることができると思い、必死に金を求めてネバギバの精神で己にムチを打ち頑張ることになる。

 

その人が金を求める最大のモチベーションは、貧乏になって否定されないためだ。

 

世界から否定されるかもしれないという不安や恐怖から逃れるために、強迫的に金を求めている。

 

そしてあわよくば自分が金持ちになって、他人を否定したり馬鹿にしたり見下したりする「価値のある側」になりたいとも思っている。

 

しかし、金持ちは存在が認められ、貧乏人は存在が否定される世界(自分の価値観の中)で金持ちになったとしても、次は金を失うことがとてつもなく怖くなる。

 

諸行無常の理によって何が起こるかわからないため、金がいくらあっても金を失うかもしれない、貧乏になって否定されるかもしれないという不安と恐怖に苛まれ続けることになる。

 

(より厳しいことを言うと、どんなにお金をかき集めて自分は価値のある人間になったつもりであったとしても、諸行無常の理によって、臨終になると、これまでかき集めた全ての金、その他価値あるもの全てを手放すことになり、そうなると、自分の世界の中では必ず価値のない人間になってしまう)

 

つまり、自分の世界(自分の価値観)が変わらない限り、不安や恐怖や強迫観念は金の有無に関わらず生じ続けることになる。

 

不安や恐怖や強迫観念といった苦しみは「金持ちは存在を認められ、貧乏人は存在を否定される」という自分の世界から生み出されている。

 

そしてそのような世界は、何よりも自分自身が「金持ちの存在しか認めず、貧乏人の存在を認めない」からこそ形成されている。

 

つまり言い換えると、自分の思想なり思考パッターンが自分の世界を生み出し、その世界によって苦しみがもたらされている。

 

自分の思考パッターンはそう簡単に変えることはできないが、変えない限り、苦しみはもたらされ続ける。

 

自分は今どのような思考パッターンで生きているのかしらん。

 

自分はどのような基準や条件を設け、どのような線引をして(人に適用している基準は自分にも適用される)、人を価値のある人間と価値のない人間とに分け、価値のない人間とみなした人に対しどのような感情を起こしているのかしらん。

 

どうなったら人として終わりと思っているのかしらん。

 

どのような形の優越感を得ようと頑張っているのかしらん。

どのような形で人を見下そうと頑張っているのかしらん。

 

というようなことを考えていくと、なかなか冷酷で醜悪な結果になると思う。

 

そしてその冷酷さや醜悪さの直接かつ最大の被害者は自分自身なのであーる。

 

まずは自分の思考パッターンや冷酷で醜悪な部分に気がつくことからだな。

 

声出して切り替えていこうと思う。