哲人 「できない自分」を受け入れられない。そうなると人は、もっと安直な手段によって補償しようと、考えます。
青年 どうやって?
哲人 あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸るのです。
「わたし」が優れていたり、特別であったりするわけではありません。「わたし」と権威を結びつけることによって、あたかも「わたし」が優れているかのように見せかけている。つまりは、偽りの優越感です。
もしほんとうに自信を持っていたら、自慢などしません。劣等感が強いからこそ、自慢する。自らが優れていることを、ことさら誇示しようとする。そうでもしないと、周囲の誰ひとりとして「こんな自分」を認めてくれないと怖れている。これは完全な優越コンプレックスです。
岸見一郎 古賀史健『嫌われる勇気』
私たちは常に自分と「何か」を結びつけて自分を規定しようとしている。
そしてその「何か」というのは不特定多数の人が価値を見出すものであることが多い。
富や地位や名声や権力や美や才能や能力や家族や恋人等など。
そしてその「何か」によって「価値のある自分」というものを作り上げようとしている。
なぜか?
根本的に寂しいからだ。
これを仏教では「愛欲」という(「肉欲」ではない)。
寂しいのであれば素直に人に近づいていけばいいのだけれど、私たちは「こんな自分」は人から拒否されると思い、拒否されることを恐怖してしまう。
それと同時に「価値のある自分」でなければ人は認めてくれないと思ってしまう。
それと同時に「価値のある自分」になれば人のほうから自分に近づいてきて、自分のことを認めてくれたり大事にしてくれたりすると思っている。
だから「何か」をかき集め、その「何か」と自分を結びつけて、こんなに価値のある「何か」を持っている自分は「価値のある人間なんだ」と思い込み、アッピールしようとする。
しかし、どうして「周囲の誰ひとりとして『こんな自分』を認めてくれない」と思ってしまうのか。
それは自分が周囲の人を「あんな奴らは価値がない」と見下して誰のことも認めていないからだ。
人を認めないから、自分が認められていないような世界ができあがる。
自分がお金のない人のことを「あんな奴らは価値がない」として見ようとしない、認めないから、お金がないと見てもらえない、認めてもらえないと思ってしまい、お金をかき集めることに必死になる。
自分が権威のない人のことを「あんな奴らは価値がない」として見ようとしない、認めないから、権威がないと見てもらえない、認めてもらえないと思ってしまい、才能をかき集めることに必死になる。
自分が平凡な人のことを「あんな奴らは価値がない」として見ようとしない、認めないから、特別でなければ見てもらえない、認めてもらえないと思ってしまい、特別な自分を定義してくれるものをかき集めることに必死になる。
そして今、自分が「特別な自分」というものを演出するために強迫的にかき集めようとしている「何か」というのは、諸行無常の理によって必ず失われるし、「わたし」ではないものなので必ず自分の手元を離れていく。
しかし、それは嫌ぽよなので、諸行無常の理を認めようとせず、何とかして「価値のある自分」というものを永遠に残そうと試行錯誤する。
何か永続的に見えるようなものを残そうとする。
モニュメント、建物、墓石、永代供養、子孫、作品、歴史的名声。
自分は普段、どういう人しか見ようとしてないか、どういう人しか認めようとしていないか。
人を認めるハードルが高い状態、つまり不寛容だと、その分偽りの優越感にしがみつくことになる。優越コンプレックスに陥ってしまう。
いずれ消え去ってしまう「権威」をかき集めるだけの日々になってしまう。
いずれ消え去ってしまうものをかき集めて自慢することだけが目的の日々になってしまう。
いずれ消え去ってしまうものに時間とお金と労力をつぎ込むだけの日々になってしまう。
吉田兼好法師が『徒然草』の中で、人生は春の日差しの中で溶けてゆく雪だるまを飾り立てているようなものでやんす、みたいな感じのことを言っていたのだけれど、そんな感じのニュアンス的な雰囲気のスタイルっぽい塩梅のベクトルチックなテイスト風のスタンスらしい日々になってしまう。
中身はすっからかんでただただ優れているかのように振る舞うだけの日々になってしまう。
人に不寛容ということは自分に不寛容ということで、それは巡り巡ってやべー。
周囲の平凡な人のことをきちんと認めていく必要があるということか。
声出して切り替えていこうと思う。