おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

結局、思考パッターン

未成熟な人間が、この心理的な段階で、あいかわらず権力や暴力といった枠組にとらわれた心的態度を見せることがしばしば観察された。そういう人びとは、今や解放された者として、今度は自分が力と自由を意のままに、とことんためらいもなく行使していいのだと履き違えるのだ。こうした幼稚な人間にとっては、旧来の枠組の符号が変わっただけであって、マイナスがプラスになっただけ、つまり、権力、暴力、恣意、不正の客体だった彼らが、それらの主体になっただけなのだ。この人たちは、あいかわらず経験に縛られていた。

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』

 

ナチス強制収容所の被収容者の中には、解放された後に、自分たちが行なう乱暴や暴力を正当化する人たちが現れてきたという。

 

彼らは収容所にいた間、価値のない人間=悪としてみなされ、暴力を振るわれる立場にあった。

 

そして解放後、彼らの一部の者は解放された被害者=善と自認し、次は正々堂々と暴力を振るう立場をとった。

 

結局、そのような人は、強制収容所に収容されていようといまいと「善人であれば悪人に対して何をやってもいい」、「価値のある人間は価値のない人間に対して何をやってもいい」という世界に生きているということになる。

 

「善人と悪人を分ける基準」、「価値のある人間と価値のない人間を分ける基準」は人それぞれある。

 

そしてその基準の多くは「力」と「正しさ」に集約される。

(私たちの多くが日々血眼で追いかけている金も「力」の一種だ)

 

「力」のある人間は、「力」のない人間をどのように扱ってもいい。

「正しさ」のある人間は、「正しさ」のない人間をどのように扱ってもいい。

 

そういう世界にいる人、価値観、ものの見方。

 

金をもった途端に金を持っていない人を馬鹿にする。

金を持っていれば、金を持っていない人をどんなに粗末に扱ってもいいと思ってしまう。

 

権力を手に入れた途端に権力のない人を蔑ろにする。

権力を持っていれば、権力のない人をどんなに乱暴に扱ってもいいと思ってしまう。

 

自分の正しさが証明された途端、正しくない人を見下す。

正しければ、正しくない人をどんなに傷つけてもいいと思ってしまう。

 

私たちの多くは自分の「力」や「正しさ」の有無によって幸不幸が決まると思っているが、それは単なる思い込みで、その思い込みの世界では「力」や「正しさ」を持っていれば人をいかようにも粗末に扱うことができ、「力」や「正しさ」を持ち合わせていなければ人からいかようにも粗末に扱われてしまうと思ってしまう。

 

これはあくまでも思い込みに過ぎない。自分が「力」や「正しさ」を持ち合わせた「価値のある人間」になれば「力」や「正しさ」を持ち合わせていない「価値のない人間」を粗末に扱うからこそ、自分が「価値のない人間」になると人から粗末に扱われると思ってしまう。

 

その恐怖から私たちは「力」や「正しさ」を強迫的に求めてしまう。

自分はいかに「力」のある人間で、「正しい」人間かをアッピールしてしまう、間違っていることも無理やり正当化してしまう。

 

よく金や権力が人を変える、というが、金と権力で人は変わらない。

 

もともとそういう人は「価値のある人間は価値のない人間に対して何をやってもいい」という思想、そういう価値観を持っていた、そういう世界の中に生きている。

 

そして諸行無常の理によって何らかのきっかけで「金」なり「権力」なりを手に入れ、自称「価値のない人間」から自称「価値のある人間」となる。

 

それはただただ「旧来の枠組の符号が変わっただけ」、「マイナスがプラスになっただけ」であり、その人の「価値のある人間は価値のない人間に対して何をやってもいい」という思想、価値観、思考パッターンは何も変わっておらず、「旧来の枠組」はもとのままだ。

 

人を善人と悪人に分けて、後者をフルボッコにする思想。

人を価値のある人間と価値のない人間に分けて、後者をサンドバッグにする思想。

 

それぞれが持ち合わせている思想や思考パッターンによって個々人の世界は異なる。

そして、思想や思考パッターンを変えることによって個々人の世界を変えることができる。

 

自分はどのような思想をもっていて、今世界はどのように見えているのか。

 

不安や恐怖を感じることが多いのであれば、自分の思想や思考パッターンが「価値のある人間は価値のない人間に対して何をやってもいい」というような不安や恐怖を生み出してしまうものなのかもしれない。

 

「力」や「正しさ」の有無を重視あるいは絶対視する思想や思考パッターンなのかもしれない。

 

声出して切り替えていこうと思う。