おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

自分に寛容じゃないと息苦しくなるだけや

収容所監視者だということ、あるいは逆に被収容者だということだけでは、ひとりの人間についてはなにも語ったことにはならないということだ。人間らしい善意はだれにでもあり、全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はいる。境界線は集団を超えて引かれるのだ。したがって、いっぽうは天使で、もういっぽうは悪魔だった、などという単純化はつつしむべきだ。事実はそうではなかった。

 

わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない。まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れ込んでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』

 

フランクル先輩によると、監視者の中にも被収容者を思いやることができた人もいれば、被収容者の中にも被収容者を蹂躙する人もいたという。

 

強制収容所という文脈で言えば、監視者=悪、被収容者=善という単純な構図は成り立たない。

それは思い違いにしか過ぎないというわけだ。

 

よって、まともな人間だけの集団もいないし、まともではない人間だけの集団もいない。

 

日本人は〇〇だ、日本人であるあなたは〇〇だ、と言われてもそれは的を射ていない場合が多い。

集団に対する漠然とした固定化されたイッメージで個人を決めつけることはできない。

 

この点はよくわかる。

 

ここで個人に焦点を当ててみる。

 

どんな集団にも、まともな人間とまともでない人間がいるように、私たちの中にもふたつの側面がある。

必ずある。

 

温かい側面と冷たい側面。

きれいな側面と醜悪な側面。

善良な側面と邪悪な側面。

有能な側面と無能な側面。

 

そしてどんな集団も「純血」ではないように、温かい側面100%の人間、きれいな側面100%の人間、善良な側面100%の人間、有能な側面100%の人間というのはいない。

 

必ず自分の中には人に知られたら人が離れて行ってしまうのではないか、人から幻滅されるのではないか、人から恐怖されるのではないか、人から馬鹿にされるのではないか、人から見下されるのではないか、人から人として扱ってもらえないのではないかと思ってしまうような側面が必ずある。

 

そういう悪の側面は他人にはなくて、自分にしかないのではないか、というのもあり得ないし、そういう悪の側面は他人にはあるが、自分にはないというのもあり得ない。

みんなに絶対にある。

 

悪の側面があること自体は問題ではない。

あるものはあるのだから仕方がない。

 

問題なのはそのような悪の側面を自分の一部として認めようとしないことだ。

 

自分は「純度100%の善人なんだぽよ」と思い込み、自分の中の悪を抑圧し、責め立て、攻撃し、なきものにしようとすることだ。

 

自分に醜い感情が起こってくるのは、自分に原因があるのではなく、あいつがあんなことをするからだ、本来私は純度100%の善人なのだけれど、あいつのせいで私の善人度が下がってしまう、あいつは絶対に許さないぽよ、と自分の中に醜い感情があることを認めることなく、それを人のせいにする。

 

ナチス・ドイツユダヤ人を悪とみなし、ユダヤ人を駆逐すれば世界はよくなるという正義を掲げていたように、わたしたちも自分の中の悪の側面を攻撃し、否定し、消し去れば自分は純度100%の善人になれるという正義をもっている。

 

そうして紛れもない自分の一部である自分の悪の側面を攻撃し、苦しんでいる。

これが自己否定だ。

 

このように自分自身がナチス・ドイツのように純血主義であるが故に、自分の悪を受け入れきれず、自己否定をしているからこそ苦しみが生じているのだけれど、わたしたちはそれがわからないので、自分の悪の側面を見せてきた他人に原因があると思い、自己否定に気がついて自己否定をやめる代わりに他人を責め立ててしまう。

 

このような「正義」をもっているのは、純度100%の善人でなければ私は人から受け入れて貰えない、人から大事にしてもらえない、人から認めて貰えないと思っているからだ。

 

そしてその「人」というのは自分が想像した「人」であるため、つまりところ自分の思い込みに過ぎない。

 

自分自身が純度100%の善人の他人しか受け入れないないし、大事にしないし、認めないからこそ、自分も純度100%の善人でなければならないと思い込んでいる。

(自分が他人に発している思いが、自分に跳ね返ってきて苦しんでいるだけなのであーる)

 

悪の側面は自分にあってはならない。

都合の悪い側面は自分にあってはならない。

冷酷な側面は自分にあってはならない。

醜悪な側面は自分にあってはならない。

邪悪な側面は自分にあってはならない。

無能な側面は自分にあってはならない。

純度100%の善人でなければ一人前の人ではない。

 

このような思考パッターンは純血な国民だけで形成された国家でなければ国家ではないと思っていたナチス・ドイツと同じだ。

 

そしてこの思考パッターンは以下の思考パッターンに発展する。

 

私は純度100%の善人でやんす。

善人の私は、自分にとって悪と見えるものをどんなに苦しめて傷つけてもいいのでやんす。

そうすることによって悪は消え去り、世界は良くなるのでやんす。

自分の中の悪も他人の悪も徹底的に攻撃すれば、悪は浄化され、自分も世界も良くなるのでやんす。

 

悪は責めてもなくならない。

なくならないものをなくなると信じて、延々と自分と他人の悪の側面を否定するだけの日々、自分と他人を苦しめるだけの日々を送ることになる。

 

おそらく他人を面と向かって否定するよりも、他人がいないところで他人を否定すること、自分の心の中で他人を否定することが圧倒的に多く、それは結局、自分が心で思い描いた他人を攻撃しているために自分の心を攻撃していることであるために、実際には「自分と他人を苦しめる」というよりは「自分だけ」を苦しめている。

 

このような苦しみから抜け出すためには、まずは「自分は純度100%の善人である」という幻想から抜け出す必要がある。

 

どんな集団も「純血」ではないように、100%善良な人間というのはいない。

 

自分にも悪の側面があるということを受け入れて、その悪の側面もかけがえのない自分の一部であるということを認めて行く必要がある。

 

自分の悪の側面に対して自分自身が寛容になる必要がある。

 

苦しまない人は自分に「悪の側面がないから苦しまない」のではなく、自分に悪の側面があることを受け入れて、その自分の「悪の側面に寛容であり、攻撃したり否定しない」から苦しまない。

 

日々何らかの息苦しさを感じている人は、ナチス・ドイツのような「純血」思考に陥っていないか、自分の悪の側面に冷酷ではないか、要確認というわけだ。

 

声出して切り替えていこう。