おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

人を粗末にするのは簡単

先日、デール・カーネギーの『人を動かす』という本を読んだ。この本には、いかにして人に気持よく動いてもらえるのか、良い感じの人間関係を作っていくにはどうすればいいのかが書かれている。同書には以下のことが書かれていた。

 

人を批評したり、非難したり、小言をいったりすることは、どんなばか者でもできる。そして、ばか者にかぎって、それをしたがるものだ。

 

人を非難するかわりに、相手を理解するように努めようではないか。どういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったか、よく考えてみようではないか。そのほうがよほど得策でもあり、また、おもしろくもある。そうすれば、同情、寛容、好意も、おのずと生まれ出てくる。

 

私たちは人と接する時や人を見た時に常に2つの選択肢を迫られている。その人を粗末に扱うか、大事に扱うか。そして多くの場合、特に相手に自分の気に入らない部分が見えた場合、息をするように楽勝で相手を粗末に扱う方を選んでしまう。

 

自分なりの常識や基準から逸れた人は、どうなってもいい存在、どんなに傷つけてもいい存在、どんなに苦しめてもいい存在、どんなに馬鹿にしてもいい存在、どんなに見下してもいい存在として見なして、実際に言動で示すことはないにしても、心の中はヒトラースターリンと同じような状態で、相手に対して拷問に次ぐ拷問を行っていることさえある。

 

人を粗末に扱うのはとても簡単で、どんなこじつけでもいいので、常に相手の悪いところ、気に入らないところを見つけて、それを根拠に罵詈雑言を浴びせて否定すればいい。他人を否定することによって相対的に「できる自分」「物事がわかっている自分」「善良な自分」「清廉潔白な自分」「有能な自分」というのも感じることができて、それはそれで気持ちがいい。一時的には。

 

逆に相手を大事にするためには相手を理解しようとする努力が必要になる。自分の気に入らない言動を相手がしてきた時に、この人は何をわかって欲しいのか、本当は何を伝えたいのか、何を満たしてほしいのかをきちんと考える必要がある。相手に見えるその相手の側面は、自分には果たして全くもってない側面なのだろうかと自問する必要がある。

 

先日、友人に会ったのだけれど、その友人は会社の上司がことあるごとにわけのわからない理由をでっちあげて仕事に遅刻してきたり、会社を休んだりすることに腹を立てていた。

 

たしかに会社をずる休みする人はいるが、会社をずる休みしたい気持ちはほとんど多くの人にある。もちろんその友人にもある。その友人は実際にはずる休みをしていないかもしれないが、今日は仕事いきたくねぇなー、さぼっちまおうおかなー、という感情がある時点でその上司と仲間なわけだ。

 

無論、会社をずる休みすること自体は悪だし、どんどんずる休みをしていこうというわけでは決してないけれど、自分にも悪の感情、ここでは会社をずる休みしたいという感情があることは事実であって、それは自分には悪の側面があることを示している。

 

このような状態でずる休みする人間を攻撃するということは、自分の悪の部分を攻撃することに等しい。ずる休みしたいという側面は、悪の側面であっても、かけがえのない自分の一部分であるために、攻撃するべきではない。攻撃すると、遅かれ早かれ自分が苦しくなるだけだ。

 

逆に、相手を理解しようと努めることを通じて、自分にも似たような悪の側面があるなーということ、相手と同じような立場におかれたら自分も同じようなことをしたり考えたりするかもしれへんどすなーということに気がつくことができれば、それは自分の悪も受容したことになるし、そうなると自分を攻撃しないように相手のことも攻撃しないようにもなる。相手に対し寛容になれるし、同情もできるし、似たもの同士ということで好意も生まれる。

 

相手の悪は自分にもあるからこそそれが目につく。私たちは相手を通じて常に自分を見ている。相手を攻撃しているようで実は自分を攻撃している。相手を大事にしているようで実は自分を大事にしている。

 

よって自分を大事にするために人を粗末にはできない。人のことは大事にしていくしかない。それでも人を粗末に扱ってしまうのが我々なのだけれど、それはそれで自分の悪として受け入れていくしかない。そして、心がけていてもできないことが自分にもあるように、心がけていてもできないことは相手にもある。これがわかってくると、相手の悪が見えた時に、相手も100%やりたくてやっているわけではないという考え方ができるようになってくる。少し相手に寛容になれる。ということは自分にも寛容になれる。

 

相手を粗末に扱ってしまった時は仕方がない。あとで少し時間を取って、どうして自分はあの時相手を粗末に扱ってしまったのか、あの時自分は相手を通じて何が見えたのか、どう感じたのか、相手を粗末に扱うことをどう正当化したのかについて反省するといいのかもしれない。

 

反省の日々だ(自己否定ではない)。