あの姿を見てたら、アンさんがカミングアウトできなかった気持ちが痛いほどわかった。アンさんはきっと、すごく辛かったと思う。
アンさんは苦しんでいた。自分の心と体のカイリに、それを母親に告白できない葛藤に、きっとずっと苦しんでいたのだ。繰り返される謝罪の言葉に、アンさんの救われない思いが溢れていた。
町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』
私たちの苦しみの多くは精神的な苦しみだと思うのだけれど、その苦しみというのは結局のところ自己否定にある。
例えば、同小説の「アンさん」というのは心と体がカイリしている人だ。
私たちは、「アンさんは心と体がカイリしているからアンさんは苦しんでいる」とつい考えてしまうが、心と体がカイリしていなくても苦しんでいる人は苦しんでいる。
心と体が乖離していようがいまいが、苦しみの種類は同じで、それは「こんな自分はいてはいけない」「こんな自分は消えたほうがいい」というように、自分で勝手に「こんな自分はダメだ」と定義し、「こんな自分」を消し去ろうとする、そういう自己否定による苦しみなのであーる。
私たちは、自分なりに「人間というのはこうじゃないといけない」という基準をもっている。
「こういう人は価値がある」「こういう人は価値がない」
「こういう人はいい人」「こういう人は悪い人」
そういう基準を人それぞれもっている。
そして多くの人が、自分の基準の中で「価値がない人」「悪い人」というカテゴリーに該当する人を何の遠慮もなく思いっきり責め立てる、むしろ、責めるべきだと思っているし、責めたほうがいいと思っているし、責めたら良くなるとさえ思っている。
私たちの多くにとって、この「価値がない人を否定する」「悪い人を責める」というのは根深い思考の癖のようになっているのだけれど、やっかいなことに、この根深い思考の癖は自分にも刃となって突き刺さってくる。
つまり、自分自身が自分の基準の中で「価値がない人」「悪い人」となった場合、自分で自分のことを責め立てたり、攻撃したり、否定したりするのであーる。
これが自己否定だ。
んじゃあ、なぜアンさんは苦しむのか。
それは「心と体が乖離していたから」ではない。
「心と体が乖離しているこんな自分は異常だ」、「異常な自分はいてはいけない」、「異常な自分は消えたほうがいい」と思っていたからだろう。
自分が異常とみなしたもの、価値がないとみなしたものに対し、否定する、責め立てる、馬鹿にする、見下す、蔑ろにする、軽視する側面があるからだ。
また、心と体が乖離していることを身近な人にカミングアウトすると、人は傷つくかもしれない、人に拒否されるかもしれない、と思っているのだけれど、それはアンさんの想像でしかないし、思い込みでしかない。
アンさんは母親をはじめとする不特定多数の人間の内面のことを確かめてもいないし、確かめることもできないのに、なぜか「そうすることによって人は傷つく、人から拒否される」と勝手に想像し、勝手に「そうに違いない」と思い込んでいる。
どうしてそう想像したり、思い込んだりするのかというと、自分自身に「異常な人を傷つけようとする」側面があるからで、自分自身に「異常な人を見捨てる」側面があるからだ。
自分が相手の立場だったらそうするからこそ、相手もそうするだろうとしか想像できない。
確かに中には、アンさんの自称「異常」を理由に傷ついたり、拒否する人もいるかもしれない。
そういう人も自分なりの基準で人を区別し、その基準の中で「異常」にあたる他人や自分を攻撃するという思考の癖によって苦しんでいる、あるいはいずれ苦しむことになる。
そういう人は一見、冷たいように見えるけれども、その自分の冷たさによって苦しんでる、あるいはいずれ必ず苦しむことになるため、可哀相な人でもある。
そして、仮に自分が「心と体が乖離していること」を母親に打ち明けると、母親は傷つくだろうけれど、それはアンさんが直接的に傷つけているわけではない。
もともと母親には「異常な人は価値がない、価値がない人は傷つけてもいい、馬鹿にしてもいい、見捨ててもいい」という思考の癖があり、「自分の子供が異常、ということは自分も異常と見られる(自分が子供が異常だったら親も異常とみるから、人からもそう見られると思ってしまう)、ということは人から傷つけられる、人から馬鹿にされる、人から見捨てられる」と恐怖し、不安になり、結局のところ自分の思考の癖で傷ついている。
自分の子供の心と体が乖離しているという厳然たる現実を直視して受け入れることなく、拒絶し、私の子供の心と体は一致しているぽよ、異常ではないぽよ、正常だぽよ、だから私も正常だぽよ、と思い込もうとしている。
そしてまたアンさんも、アンさんの中に「母親を傷つける人間は悪であり、そういう悪の自分には価値がない、価値がない人間は消え去るべきだ」という悪への冷酷な心があるからこそ、それが自分に跳ね返ってきて苦しんでいる。結局のところ自分の思考の癖で苦しんでいる。
いずれにせよ、自分が異常とみなしたもの、価値がないとみなしたもの、悪とみなしたものに自分自身が不寛容で冷酷だからこそ、それが自己否定となり苦しむことになっている。
逆に、異常なものや価値がないものや悪とみなしたものに寛容だと精神的な苦しみはない。
人がどんなに異常な人間、価値がない人間、悪い人間と自分のことを的確に見抜いてきたとしても、最終的に自分自身が自分の異常性や価値のない側面や悪の側面を受け入れていて、そういう自分の側面を攻撃したり、消し去ろうとしなければ、たしかにそういうところもあるどすなー、で終わりである。
私たちはつい「価値がないとみなしたもの」に対して冷淡な思いを起こしてしまうが、そういう冷淡な思いを起こしてしまう自分の鬼の側面にも、最終的には優しく友好的に接していきたいものだ。
自分の中の鬼=悪は外に追い出すものではなく、まぎれもない自分の一部なのだから寛容に受け入れていくしかない(受け入れるということは正当化するということではない)。
鬼に豆をぶつけるのではなく、鬼と一緒に豆を食える仲になったほうがいいわけだ。
なるほど。
声出して切り替えていこうと思う。