おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

自己肯定感の高め方

自尊心とは、自分で自分を尊重し、受け入れる態度のことです。自尊心が低いと自分で自分を肯定できないため、他者の承認が必要になってくるのです。

安達裕哉『頭のいい人が話す前に考えていること』

 

自尊心というのは自分を大事にするということなのだけれど、私たちは簡単に「大事にする」と口にするが、「大事にする」ということはどういうことなのかを実際にはよくわかっていない。

 

私たちは人それぞれ、人を粗末に扱ってもいい基準を設けている。

 

〇〇な人間は馬鹿にしてもいい

〇〇な人間は傷つけてもいい

〇〇な人間は見下してもいい

〇〇な人間は蔑ろにしてもいい

〇〇な人間は苦しめてもいい

 

自分にとって都合の悪い人間、自分にとって悪の人間、自分にとって価値のない人間に対して私たちは冷酷な思いを起こす。

 

逆に、自分にとって都合の良い人間、自分にとって善の人間、自分にとって価値のある人間に対しては温かい思いを起こす。

 

ある人の基準の一つが、美人は価値のある人間で、ブサイクは価値のない人間というものだとする。

 

そして、その人は価値のない人間には冷酷な感情を抱くとする。

 

すると、その人は自分がブサイクな人に対して冷酷な思いを起こしている分、強迫的に美人になろうとする。

 

美人な自分でなければ、自分がブサイクな人を馬鹿にするように、自分がブサイクな人を傷つけるように、自分がブサイクな人を見下すように、自分がブサイクな人を蔑ろにするように、自分がブサイクな人を苦しめるように、人もまた自分をばかにしてくるだろう、傷つけてくるだろう、見下してくるだろう、蔑ろにしてくるだろう、苦しめてくるだろうと怖くなるからだ。

 

美人でなければ大事にされない。

ブサイクな人間は見捨てられる。

 

この恐怖をベースにしてその人は美貌を求めていくのだけれど、その恐怖は自分がブサイクな人間に対して冷酷な思いを起こしている限り、絶対になくならない。


(この恐怖は他人が作り出しているのではなく、自分自身が他人に冷たい思いを起こすことによって生み出している

 

そしてその恐怖がなくならないが故に際限なく美を追求し、しまいには整形手術を繰り返す。

 

自分より美人の人が現れると、このままでは自分は大事にされないのではないか、もっと美人にならなければならないと不安になる。

 

そしてその美は諸行無常の理によって必ず朽ち果てることになるのだから、これまで自分が美を追求するために費やしてきた時間と労力とお金は全て無駄になる。

 

そして何よりも、美貌も持ち合わせていない人に対して自分が起こしてきた冷酷な思いが、今となっては美を失った自分にそっくりそのまま圧倒的な自己否定として降り掛かってくる。

 

すごく苦しいだろうと思う。

 

その悲劇は、自分の基準の中で「価値がない人間」とみなした人に対して自分が起こす冷酷な思いによって引き起こされている。

 

美への執着は醜悪なものへの冷酷さに他ならない。

価値あるものへの執着は価値のないものへの冷酷さに他ならない。

 

物事を二つに分けて、一方を否定する、粗末にする、蔑ろにするという思考パッターン。

 

私たちの中には必ず善良な部分と醜悪な部分があるのだけれど(その「善良」や「醜悪」というのも自分で勝手にそう思っているに過ぎないのだけれど)、「醜悪なもの=価値のないもの」はどんなに傷つけてもいいという冷酷な思考パッターンを持ったままだと、醜悪な部分が必ずある自分に対して、絶対に寛容になれない、温かい思いを起こすことはできない。

 

「大事にする」というのは自分にとって都合の悪いもの、醜悪なもの、価値のないものを否定しないこと、この世から消え失せて欲しいと願わないこと、むしろそれらの存在を肯定すること、この世に楽勝でいてもいいと思うことだ。

 

よって自分を大事にするというのは、自分の醜悪な部分も消し去ろうとせずに、正当化もせずにそっくりそのまま受け入れること。こういう醜悪な部分がある自分でもこの世に楽勝でいてもいいと肯定することだ。

 

そして、自分の醜悪な部分を肯定するためには、他者の醜悪な部分を否定せずに肯定することが効果的だ。

 

他者の醜悪な部分というのはよく見える。そしてそのときに見えたものは必ず自分にもある。

 

例えば、ある人の中にケチな一面が見えたとする。

 

通常であれば、ケチくさっ、きもっ、こんなやつまじで無理、目の前からそっこーで消えて欲しいでやんす、とその人をぶった斬ってしまうかもしれない。

 

だがしかーし、ここで考えなければならないのは、果たして自分にはケチくさいところは本当に一切ないのだろうか、ということなのだけれど、絶対にあるんだよなー、これが、情けないことに。

 

他人に見えるものは自分の中にも絶対にある。

 

よって、他人のケチ臭さを否定するということは自分のケチ臭さを否定するということになる。

 

そのように否定しているから、人からケチと思われることが怖くて、ケチと思われないように虚勢を張って、己にムチを打って訳のわからない余計な出費をしてしまう。

 

そしてそのような虚栄的な出費をもってして、本当はケチくさい一面があるにも関わらず、自分はケチな人間ではない他人にアッピールし、自分でも私はケチな側面など一切ない人間であると思い込むのであーる。

 

少し話を戻すと、他人に見える醜悪な部分は自分の中にも確実ある醜悪な部分であるのだから、醜悪な部分のある他人に暖かく接することによって、自分の醜悪な部分に対しても少しづつ寛容になってくる。

 

ここでのポイントは、他人のために他人に暖かく接するのではなく、自分の醜悪な部分に暖かく接することができるようになるために他人に暖かく接することだ。

 

あくまでも主軸は他人のためではなく自分のためだ。

自分が自分を肯定しやすくなるために他人を肯定する。

 

自分のためにやること。

 

善人ぶる必要はない。

 

純粋に他人のために他人を肯定できるの神や仏だけであるため、私たちのような一般ピーポーは下手に善人ぶるのではなく自分のことにまずは集中した方がいい。

 

可能な限りどんな人のどんな側面であっても肯定したほうがいい。

 

そして肯定できずに思わず冷酷な思いがわき起こってきたら、あんな人間だから冷酷な思いを起こしてもいいさかい、と正当化せずに、冷酷な思いを起こしている自分をそのまま受け入れること

 

〇〇な人に対して冷酷な思いを起こしてしまう自分どすなー、と受け入れること。

 

冷酷な思いを起こしてしまうこんな自分はダメな人間なんだと、否定しないこと。

 

それは自分の醜悪な一面かもしれないけれど、それはそれで自分の大事な一面でもある。

 

否定してしまったら、自分のこういう側面を否定してしまう自分どすなー、とそれはそれでそのまま受け入れること。

 

自分のために他人を温かい気持ちで肯定していく。

そして、その都度自分が起こした思いを観察して、受け入れていく。

 

すると段々と「価値がない」ものへの冷酷な気持ちが薄らいできて、その分どんな自分も受け入れられるようになってきて、温かい気持ちを起こせるようになってきて、自分を自分で肯定できるようになってくる、自分で自分を大事にできるようになってくる。

 

自分で自分を大事にできるようになってくると、価値のあるもの(お金や美貌や地位や名声など)をかき集めて、自分がいかに価値のある人間なのかを他人にアッピールし、他人から承認してもらうためにあくせくしなくてすむようになる。

 

そうなると、すんげぇ楽だ。

 

声出して切り替えていこうと思う。