おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

人を責めても自分に苦しみが生じるだけや

わたしたちは犯人探し本能のせいで、個人なり集団なりが実際より影響力があると勘違いしてしまう。誰かを責めたいという本能から、事実に基づいて本当の世界を見ることができなくなってしまう。誰かを責めることに気持ちが向くと、学びが止まる。一発食らわす相手が見つかったら、そのほかの理由を見つけようとしなくなるからだ。そうなると、問題解決から遠のいてしまったり、また同じ失敗をしでかしたりすることになる。誰かが悪いと責めることで、複雑な真実から目をそらし、正しいことに力を注げなくなってしまう。

 

世界の深刻な問題を理解するためには、問題を引き起こすシステムを見直さないといけない。犯人探しをしている場合ではない。

 

犯人探しは、その人の好みが表れる。人は自分の思い込みに合う悪者を探そうとする。

ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロランド『FACT FULNES』

 

私たちは誰か悪者だと思われる人を探して、全ての原因をその人に帰し、その人を責め立てれば問題が解決すると思ってしまう。

 

そこには、自分は常に正しい、自分は善良な人間という前提がある。

 

私は正しい。私には物事の道理が見えていて、正しい自分の思い描いたとおりにやれば、物事は円滑にいく。しかし、実際にはうまくいっていない。なぜぽよ? 正しい私にその原因があるはずがない。ということは、物事が円滑にいかないのはあいつのせいであり、あいつがいなくなれば、私の正しさは邪魔されることがなくなり、そうなると全てはうまくいくぜベイビー。正しくない人間は正さなければならない。よっしゃ、ここは一丁、存分にあいつを責め立ててしばき倒したろ。

 

私は善良であり、清廉潔白な心の持ち主だ。善良な自分がこんな醜い感情を起こすはずがない。このような醜い感情を起こしてしまうのはあいつがああいうことをしたり、言ってきたりするからだ。あいつさえいなければ、私は平穏な心で生きていくことができる。きゃつの消滅を切に願うでやんす。

 

みたいな感じのニュアンス的な雰囲気で、自分は正しさや善良さを兼ね備えた「善人」という大前提に立って、自分が「悪人」と規定した人に、自分の苦しみの全ての原因を見出してしまう。

 

諸悪の根源である「悪人」を傷つけ、責め立て、消し去れば、自分の苦しみは全てなくなると思ってしまう。

 

善人の自分が苦しんでいるのは悪人のあいつ(ら)のせいだ。

だからあいつ(ら)は消え去るべきで、あいつら(ら)を消し去る方向性の行為は善であり、正義である。

 

だがしかーし、この思考パッターン自体が苦しみの原因なんだぜ、ベイビー、とゴータマシッダールタ先輩は説く。

 

私たちは一人ひとりが善悪の基準をもっていて、世界を善と悪に分けている。

そして私たちは基本的に悪の存在を受け入れることもなく、認めることもなく、否定し続けている。

悪は消え去るべきだと思っている。

 

(たとえ俗に言う犯罪者であっても、自分は善人というところに立ち、あんな悪人にはこれくらいのことをやってもいいと自分の犯罪を正当化している場合がほとんどだ。

自分はこんなに苦しんでいる。そしてこの苦しみはあいつ(悪人)のせいだ。だからあいつに対してこのようなことを行うことは正しいことなんだ、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の思考パッターンで、これは自称一般人の私たちの思考パッターンと何ら変わりはない)

 

しかし、自分の中にも確実に悪の側面がある。

100%善の側面だけの人もいなければ100%悪の側面の人もいない。

自分の中には善の側面もあれば悪の側面もある。

 

その上で、悪を否定していると、自分の悪の側面を押し殺し、自分の善の側面しか見ない、自分の善の側面しか認めない、ということになる。自分を100%善人と勘違いしてしまう。

 

自分は常に正しい、自分は常に善良という、善人としての大前提が崩れなければいいのだけれど、諸行無常の理によって、その大前提は必ず崩れとことがある。

 

自分は仕事ができる人間と思っていたが、ミスをしてしまうこともあるし、他人から指摘を受けることもある。

 

その時に、自分が思い込んでいる自分の側面とは異なる側面、つまり仕事ができない側面、ミスをしてしまう側面、つまり自分の基準からすると「悪の自分の側面」が自分に見える。

(自分のことを仕事ができる人間=善人と規定している人は、仕事ができない人=悪人と規定し、仕事がうまくいかないのは悪人のせいで、そのような悪人は消え去るべきだと考えている)

 

その時に、常日頃から悪を否定する思考パッターンが刃となり、自分の悪の側面を攻撃し、自己否定となり苦しみが生まれる。

 

この時に、この苦しみは自分が常日頃から悪を否定しているが故の苦しみであると気がつくことができればいいのだけれど、基本的にそうはならず、その苦しみは他人によってもたらされたものであり、他人に原因があるとして、あいつがああだから仕事ができなかった、ミスをした、あんな言い方はないだろうと、他人を責めてしまう。

 

自分が悪に寛容であれば、他人からミスを指摘されて仕事ができない自分の側面=悪の側面が見えたとしても、それを許容しているために、自己否定にならず、苦しみが生じることはない。

 

(悪に寛容であるということは悪を正当化するということではない。仕事のミスはどんどんするべきなんだということにはならないし、仕事のミスをすることが正しいことなんだということにもならない、仕事のミスはしないほうがいいに決まっている)

 

つまり、誰かを悪者にしてその人を責めるということは、自分の悪の側面にも不寛容なままということで、自分の悪の側面も責めることになるということで、そうなると苦しみを生じさせてしまう思考パッターンから永遠に離れることができなくなってしまう。

 

他人に見える悪の側面に寛容であるということは自分の中にある悪の側面に寛容になることで、自分の中の悪の側面に寛容になることで、自己否定がなくなり、その分だけ苦しみが生じなくなってくる。

 

犯人探し本能は仏教的な観点からしてもデメリットしかない。

 

声出して切り替えていこうと思う。