おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

他責も自責も自分を傷つけている点では一緒

先日、職場のレイアウト変更があったのだけれど、その段取りがなかなかうまくいっておらず、嘱託職員のおじさんたちが、同レイアウトを企画した管理職について文句を垂れていた。

 

何か思い通りに行かないことがあった時に、私たちはつい人を責めてしまうが、この時に理解しておいたほうがいいことが2つある。

 

まず1つ目は、人を責めても問題は解決しないということ。

 

誰かを悪者にして傷つけたところで、職場のレイアウトがスムーズに変わるわけではない。

 

責めることと問題が解決されることの間には何の因果関係もない。

だから人を責めることは無駄でしかない。

 

それから2つ目は、人を責めるということは自傷行為であるということ。

 

わたしたちは相手のことを直接的にありのままに捉えていると段違いな勘違いをしているが、実際は、自分の心のフィルターを通じて相手を捉えている。

 

相手を見ている時は、自分の心のフィルターで自分なりに歪めて相手を見ている(だから同じ人であっても一人一人見え方が異なる)。

 

このように、自分と相手の間には必ず自分の心のフィルターなるものが介在しているのだから、相手を攻撃しようとすると自分の心を傷つけてしまうことになる。

 

また、言葉や態度には出さないにせよ、悶々とある人に対して怒り狂っている時、私たちはその人のことを心の中で思い浮かべては、その想像上の相手に向かって罵詈雑言を浴びせかけているはずだ。

 

嘱託職員のおじさんたちは自席に黙って座り、管理職を思い浮かべてはサンドバッグとしてフルボッコにしていたのかもしれない。

 

しかし、心の中で思い浮かべている相手をどんなに責めて傷つけても、そもそも実際の相手は傷つかない。

 

そして何よりも、その想像している相手というのは、自分の心から立ち上げられているものなのだから自分の心そのものであって、心の中で思い浮かべた相手を攻撃するということは自分の心を攻撃することと同じなのである。

 

パソコンの画面上に映し出された犯罪者をぶん殴ったところで、パソコンが傷つくだけなのと同じだ。

 

以上の2点から言えることは、相手が目の前にいようがいまいが、相手を責めて傷つけようとすると、自分を傷つけることになってしまうということだ。

 

自分は相手を傷つけたつもりかもしれないけれど、相手は傷ついていないかもしれない。だけれど、自分は確実に傷つく。

 

人を責めても問題は解決しないし、自分の心が傷つき苦しむことになる。

 

だからどんなに正しいことであっても、それを根拠にして相手を傷つけようとした時には、それと同時に自分の心を攻撃しているので、何となく気持ちが悪いというか、釈然としないというか、どことなく落ち着かないのであーる。

 

人を責めたり、苦しめたり、傷つけたりしようとすることのメリットのなさ、この損失の大きさにいかに気がつけるかだな。

 

他人を責めても自分を責めても自分が傷ついて苦しむことになるのだから、結局のところ他責も自責も同じことなのだ。

 

ということは頭ではわかっていてもつい人や自分を責める心というのは起きてしまう。

 

それほどまでに他責思考=自責思考というのは無意識のうちに習慣化されている。

 

この習慣から抜け出すには、まずは相手や自分を責めている自分に気がつける状態、自分をある程度、客観視できる状態、俯瞰できる状態になる必要がある。

 

自傷行為をしようとしている自分に気がつければ、止めやすくなるし、やったとしてブレーキがきく。

 

そのためには使っていない自分の持ちものを手放していき、自分の身の回りをすっきりさせる必要がある。

 

ものを減らすことによって、外の事象に囚われることが少なくなり、自分の心の内側に注意を向けやすくなり、自分が起こしている思いや感情を把握しやすくなるからな。

 

声出して切り替えていこうと思う。