おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

鬱っぽい同僚から学んだこと

先日、職場の同僚が病休から戻ってきた。

 

彼女はある日突然来なくなり、それから3ヶ月ほど休んだ後に復帰する運びとなった。

 

おそらく鬱なのだと思う。

 

顔色から察するに今もあまり調子が良いとは思えないのだけれど、とりあえず仕事に来られるようになって良かった。

 

彼女が休む前に、私は時おり彼女と話す機会があり、その際に以下の2点がめっさ気になった。

 

1 人を認めるハードルが高い

2 人を責める度合いが強い

 

これは彼女が冷淡な思いを起こしやすく、なおかつ彼女が起こす冷淡な思いの度合いが強いことを意味している。

 

私たちが冷淡な思いを起こす時には基本的に2つの段階がある。

 

まずは物事を自分の基準で2つに分ける。

自分に都合が良いものか自分に都合が悪いものか。

善か悪か。

 

そして、自分にとって都合の悪いもの、悪に該当するものを否定することこそ善であるとして、冷淡な気持ちを起こしてしまう。

 

悪を否定することこそ善であるというのが私たちの善悪観である。

 

あんなやつは消えてしまえばいい。

あんなやつは地獄に落ちればいい。

あんなやつは痛い目にあわせるべきだ。

あんなやつは極刑に処すべきだ。

 

以上のようなことを思うことは善人として当然でざます、と思っているのが私たちの善悪観である。

 

しかしながら、仏教においてはどんな相手、どんな理由であろうとも冷淡な思いを起こして人を責めること、人を傷つけること、人を見下すこと、人を馬鹿にすることは悪になる。その理由は至ってシンプルで、その思いが自分を苦しめるからだ。その思いが苦しい物事の見方=苦しい自分の世界を生み出すからだ。人を傷つけようとすることは実際に自分を傷つけるからだ(この場合、相手は実際に傷つかないのに、自分の心は傷つくという点でガチのムチで割に合わない)。

 

以上を踏まえて同僚のことを考えてみる。

 

彼女は人を「仕事のできる人=善人」と「仕事のできない人=悪人」に分けており、「仕事ができない人=悪人」に対しては冷淡な思いを起こしていいと思っている。しかも、思いっきり否定してもいいと思っている。

 

そして、彼女が誰かを「仕事ができる人=善人」として認めるにあたっては極めて高いハードルが設けられており、凡人まみれの現実世界において、彼女の周囲は「仕事のできない人=悪人」だらけであり、見渡す限り人の悪が目につくようになる。

 

そして、その悪を認識する度に冷淡な思いを起こし、言葉や態度や行動には出さないにせよ(実際は出すこともあったが)、心の中では周囲の「仕事のできない人=悪人」を責め立て、馬鹿にし、見下し、否定していたのかもしれない。

 

また周囲の「仕事のできない人=悪人」を否定することによって、相対的に「仕事のできる自分=善人の自分」というのを感じようとしていたのかもしれない。

 

そうなるとどうなるか。

 

常日頃から、人の悪が目につくようになり、それに伴い人を否定する時間が多い日々を送ることになる。つまりそれは自分を傷つけることの多い日々を送ることになる。

 

そして人のミス=悪に対して思いっきり否定する気持ちを起こしているからこそ、自分がミスを犯すことが異常に怖くなる。思わずミスを犯してしまった時は、自分が日頃からミスを犯した人を否定しているために、周囲の人間から思いっきり否定されているように感じてしまうからじゃ。

 

自分の心を傷つける日々。ミスをして周囲の人間に否定されはしないかとビクビクしながら過ごす日々。そんな日々を送っていたら、心がダウンするのも無理はないだろう。

 

彼女は自分で苦しい世界、息苦しい世界を作り、その中で今も苦しんでいると思う。皮肉ではなく、本当に可哀想だと思う。

 

これは安定剤でどうにかなる問題ではなく、彼女の根本的な思考パッターンの問題だ。今の私にできることは、彼女の至極平凡な部分、彼女が頑張らないでも楽勝でできている部分(例えば、水を水筒に入れて持ってきていること等)をすげージャマイカ、とボブ・マーリー風に肯定してあげることくらいだろう。

 

とか言う私もやはり冷淡な思いを楽勝で起こしてしまう。その時はその時で正当化することなく冷淡な思いを起こしていることを受け入れていくしかない。そうすれば今後何らかの苦しみが生じた時に、この苦しみは自分がかつて起こしていた冷淡な思いが返ってきていると自覚し、その苦しみの原因を他人に求めることがなくなってくる。

 

また、冷淡な気持ちを起こしているということ、つまりそれは仏教的には悪人ということになる。それはそれで仕方がない。自分に悪の部分があることを受け入れていくしかない(だからといってどんどんどんどんどんどこどんどこ冷淡な気持ちを起こしてもいいということには決してならない)。その自分の悪の部分に対して冷淡な気持ちではなく、寛容な気持ちで接していくしかない。

 

冷淡な思いはいずれ自分の苦しみとなるとわかっていると、自分の冷淡な思いに気がついた時に、自分を自分でなだめることができる。冷淡な気持ちを起こしてしまうのはわかるけどさ、そんなに責めても現実的な問題は解決しないし、いずれ苦しむことになるさかい、相手を心の中で八つ裂きにするのもこのあたりにしとこうジャマイカ、とボブ・マーリー風に自分をなだめることができる。

 

人を責めるのはもちろん個人の自由だけれど、その冷淡な思いは必ず自分に返ってくる。下手をすると心が壊れる。人を責める時はその覚悟が必要だ。自分の苦しみを他人のせいにしたい気持ちもわかるが、他人を責めようとするその冷淡な気持ちこそが苦しみの原因だ。これは自分への戒めである。

 

同僚から学んだことは大きい。当該同僚にガチのムチで感謝。