おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

人から責められたくないからやっていることは身につかない

「なぜミスしたんだ?」と、”個人”を責めるか。

「どうすれば防げたのだろう」と、”仕組み”を責めるか。

 

安藤広大『とにかく仕組み化』

 

私たちは物事が思い通りにならなかった時に、まずはその原因となったであろう悪人を探し出し、その悪人を責めることによって解決しようとしてしまう。

 

悪を見つけ、悪を徹底的に傷つけ、攻撃し、消し去れば、問題は解決すると思ってしまう。

 

自分にとって不都合なものは攻撃して消し去れば万事OKという発想に基づき、身近な人の悪を探しては責め立て、テレビジョン内の赤の他人の悪を探しては攻撃し、自分の悪を見ては自己否定する。

 

物事がうまくいかない原因は他人にあり、その人を責めたれば問題は解決するという思考パッターン。これが苦しみの連鎖を生む。

 

悪というのは自分が定めている自分なりの基準に照らし合わせて価値がないとみなしたもの、ダメぽよとみなしたもの、全てのことだ。

 

責めて何かをやらせようとすること、責めて何かをやめさせようとすること、そんなことをしても相手は根本的には何も変わらないし、問題は解決しない。

 

例えばここに早起きができないAさんがいたとする。そして、私はAさんを責め立てることによって、Aさんを早起きさせようとしたとする。

 

Aさんは私に責められたくないので、早起きをするようになるだろう。Aさんは私に責められたくなくて、早起きしなければならないと己にムチを打ち早起きをするようになるだろう。それは、Aさんが早起きをしたいと思ってやっていることではない。早起きをやっていこうと思ってやっていることではない。それは単に私に責められたくないという思いで、苦しみながらやっていることに過ぎない。

 

そして、諸行無常の理によって私がAさんのもとからいなくなってしまうと、Aさんは早起きをやめるだろう。

 

Aさんにとって早起きは責められないための手段でしかなく、責められない状況となった今、わざわざ苦しむ必要性がない今、早起きする意味はAさんにとってないからであーる。

 

よって、相手を責めてどうにかしようとしても、問題は一時的には解決するかもしれないけれど、根本的には何も変わらないということになる。

 

そして、Aさんの立場から言えば、責められないためにやっていること、やらなければならないからという理由で自分にムチを打ってやっていること、そういうものは身につかない。苦しみながらやっているので習慣にならない。

 

責めてやらせようとする側にとっても、責められてやらされる側にとっても不快で無駄でしかない。

(まぁ、責めてやらせる側からすると、相手を責めることによって「できる自分」「わかっている自分」という自分にとって都合の良い自分を感じることができるため一時的にな気持ちが良いのだけれど、その快楽は一瞬で不快に変わる)

 

人から責められたくないからやっていること、人に馬鹿にされたくないからやっていること、人に見下されたくないからやっていること、それらは外面を取り繕っているだけで、本当の意味で身につくことはない。

なぜそうすることが大切なのかということを納得した上で行っていないために、自分を責める対象、自分にムチを打つ対象がいなくなると継続できないからだ。

(ちなみに、ここでいう身につくということは、習慣になるということだ。楽勝で身軽に動くことができる状態になるということだ。)

 

人を責めないとやらせることができないということは、自分が何かをする時も自分で自分を責め立てて行っていることが多い。あるいは自分自身も他人から責められないようにそれをやっていることが多い。つまり、人を責める人は息苦しい世界にいる。そして自分が息苦しいから、他人にもその息苦しさを要求する。

 

自分が己にムチを打ち我慢してやっていることを他人がやっていないと、なんでおいどんはちゃんとしているのに、あいつはちゃんとやっていないぽよ、と腹が立ち、その人を責め立てることになってしまう。そして相手を責めた分だけ、自分はちゃんとしていないといけないという心境になり、己にムチを打って頑張り、ますます余裕がなくなってしまい、息苦しくなる。

 

逆に、あることを行なうことの大切さを納得した上でやっていると、我慢してやっているわけではないので、相手を責め立てることがない。それをやっていない人を見ても、可哀想とか、もったいないなーという感情が起こってくる。

 

例えば、人から馬鹿にされないように我慢して働いている人は、働いていない人を見て腹が立ち、人生舐めとったらあかへんど、とがなり立てる羽目になるだろうけれど、働くことの大切さを納得して働いている人は、働いていない人を見て、働けるのに働かないなんてもったいないなー、働くことにはこんなにメリットがあるのになー、というある種の哀れみを感じ、妬みや嫉みや怒りといった感情はわき起こってこない。

 

(働いていない人を見ると異様に腹を立てる自称大人がいるが、そういう人は自分が働いている理由が「働かなければならない」、「働かなければ人から馬鹿にされる」、その程度しかなく、自分で自分に闇雲にムチを打って頑張っているので苦しんでいる人で、実際は可哀想な人なのだ)

 

今自分がちゃんとやっていると思っていることをやっていない人がいたして(例えば、早起きとか労働とか節約とか運動とか子育てとか納税とか)、そういうちゃんとしていない人を責める気持ちや、馬鹿にする気持ちや、見下す気持ちがわき起こってきたとしたら、自分はその行為を人から責められないためにやっている、馬鹿にされないようにやっている、見下されないようにやっている、あるいは言い換えると、やっていない人、できていない人を責めるためにやっている、馬鹿にするためにやっている、見下すためにやっているということになる。その行為の大切さを考えることも納得することもなく、その行為を行っている。

 

その種のものは身につかないし、苦しみを生む。

 

声出して切り替えていこう。