おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

ニートに不寛容なニートの自分だった

どう考えても、いま目の前にあるこの社会は、人を奴隷的な労働に縛りつけるように全てが動いている。私は小説家だが小説家でさえも、自分が書きたいことを書きたいようにかいているのではなく、多くの小説家は学校の教室で模範解答案を書くように書いているようにみえる。

 

保坂和志さんの『人生を感じる時間』は上記の一節から始まるのだけれど、大学時代にろくに就職活動もせずぷらぷらしていた当時の私にとって、まじでそれ、と思わせてくれ、労働を奴隷的であるとしか捉えることができなかった視野狭窄した私にとっては救いのような文章だった。

 

これはこういうものだから、こうじゃないといけない。

あれはああいうものだから、ああじゃないといけない。

こうじゃないとおかしい、ああじゃないとおかしい。

 

不特定多数の人間が設定しているっぽい漠然とした枠組みから自分の考えや言動がはみ出ないようにびくつきながら行動している様、その枠内でしか考えたり行動できなかったりする状態、それらがここで言う「奴隷的」という意味だと思う。

 

例えば、学校を卒業したら就職しなければならないという世間的な規範があり、当時の私は就職などせず自らニートになった、んじゃあそういう私は奴隷的じゃなかったのかというと、奴隷的だった思う。

 

当時の私は世間的な規範を外れて「ニート」として自由に生きていたようであったにも関わらず、実際には奴隷的だった。なぜかというと、やはりあまり心地の良く過ごすことができていなかった、何もしていないということにある種の罪悪感や焦燥感みたいなものを感じていて、自分を肯定的に捉えることができていなかった(正当化だけはたくさんしていた)。

 

それは傍から見ると世間的な規範に囚われず自由に過ごしているように見えるかもしれないが、実際はに囚われていて、その規範を基準にして人や自分を測ってしまっていたから罪悪感なり焦燥感を感じたり自分を肯定できなかったりしていたわけだ。本当に世間的な規範から自由であれば楽勝で日々を過ごすことができていたはずである。

 

”監視型権力”は、古いタイプの”規律型権力”と比べてひじょうに巧妙にできていて、私たちから「何もしない」という権利や「怠けたい」という自由を奪う。「楽になる」という触れ込みで新しいシステムを作って、パソコンのメールのように二十四時間職場から離れられないように人を追い込み、すべてを経済効率に換算してゆく。さらには、経済効率のサイクルに入らない人間には”ニート”の烙印を押して、罪悪感や無力感を植え付けて、彼らが形而上学に走ったり、突如”蜂起”したりしないように監視する。

 

確かに世間には人を縛ってくるような社会、烙印を押して罪悪感を抱かせるような社会があるという見方もできるかもしれない、しかし、それは自分が縛られていると感じなければ問題ないし、規範から外れている自分が責められているように感じなければ罪悪感も感じない。

 

ニート状態であっても息苦しいということは、縛られているように感じたり、自分が責められているように感じたりしているわけだけれど、どうして不特定多数の人間から成る社会という漠然としたもの、確かめようのないものに対して、奴らが縛ってきている、奴らが責めてきていると確信めいた感じ方をすることができるのか。

 

働いていない人間はダメな人間なのでしょうか、この世にいてはいけない人間なのでしょうか、と社会の構成員全員に聞いて回った上で、その結果をもって世間が縛ってくる、世間が責めてくると感じているのかしらん。

 

そんなわけがなく、やっぱり自分自身が世間的なものの見方や規範に囚われていて、その規範に基づいて自分や人の価値を測り、その規範から外れないように自分や人を縛ろうとしたり、その規範からして価値がないと見なした人を責めているが故に、自分が規範から外れているまたは自分が規範からして価値がないとなった場合に、縛られているように感じたり責められているように感じてしまう。

 

みんながみんな自分を縛ろうとしてきたり責めようとしてきたりしているわけでもないにも関わらず、どうしてもそう感じてしまうのは、何よりも自分自身が自分や他人を縛ったり責めたりする傾向が強いからだ。自分がそうするから他人からもそうされるように感じる。息苦しさの根本的な原因は社会にあるのではなく自分にある。一定の基準を満たさない人に対して不寛容な自分にある。

 

当時ニートだった私がある種の息苦しさを感じていたのは、人は働かないといけない、月に〇〇円稼がないといけない、ああじゃないといけない、こうじゃないといけない、という漠然とした世間的な基準を自分の基準としてしまい、その基準で自分や人の価値を測ってしまっていたからであるし、なおかつ、ここが一番重要なのだけれど、その基準からして価値がないと見なした人を見下したり、馬鹿にしたり、否定したりしていたからだ。だから、自分が価値がないと見なされる立場になると、逆に不特定多数の人間から見下されたり、馬鹿にされたり、否定されてたりしているように感じて、息苦しくなっていた。

 

当時は自分の苦しみの原因を社会のせいにしていて、おれはおかしくないぽよ、社会がおかしいぽよ、みたいな感じのニュアンス的な見方を補強してくれるような文章が見つかったら嬉しかったのけれど、諸行無常の理によって紆余曲折あり、苦しみの原因は漠然とした社会にではなくただただ自分の不寛容さにあることがわかってきたように思う。当時の私はニートでありながらニートに寛容ではなかったのだ。

 

何事にも寛容でありたいものでござる。