私たちの身の回りの物事は放っておくと乱れていく。
乱れていくものをその都度整えていくことができれば、生活は快適な暮らしになるし、乱れっぱなしにしておくと、生活は荒れたものになる。
結局、良い日常というのは整え続けられることそのものなのかもしれへんなー。
みたいなことを関西人でもないのに関西風に最近よく考える。
放っておくと乱れるということは、以下のようなニュアンスの雰囲気的な塩梅のスタイルっぽいスタンス風のベクトルみたいな感じのことだ。
体型がだらしなくなっていく。体がだるくなってくる。服は汚れていく。余計なモノが増えていく。消耗品が減っていく。部屋が汚くなっていく。部屋が臭くなっていく。爪が伸びてくる。体毛が伸びてくる。体が臭くなってくる。人間関係が希薄になっていく。人間関係が悪化していく。気分が鬱屈してくる。仕事が溜まってくる。ものが壊れていく。
何事も乱れていくのが自然であるが、乱れっぱなしになっていると色々とやばいので、整え続けていく必要があるわけだ。
自分の身の回りのことを整え続けられている限り、その日常はいい感じになる。
そして、何かを整えるにはそれなりの時間や労力やお金が必要になるため、一人の人間が整えられる量には限界がある。
その限界を超えてしまうと、管理することができず、整えることが間に合わず、乱れっぱなしという事態を招き、結果、あっぱらぱーな日常になってしまう。
よって、己の限界を受け入れて、何事も自分で管理できる量に留める、自分で整えられる量に留める、自分で大事にできる量に留めることが重要になってくるさかい。
乱れっぱなしの人は、自分で管理できないほどの量を抱え込もうしているのかもしれない。
自分で管理できないほどの量、自分で整えることができないほどの量、自分で大事にできないほどの量のものを抱え込もうとするということがいわゆる執着というものなのだろうけど、んじゃあ、どうして私たちは自分の限界を超えて様々なものを抱え込もうとするのかというと、心の奥底で「自分には価値がない」と思っているからで、自分で自分に価値を見出していないからで、自分で自分を大事な存在だと思えていないからで、なおかつ価値がない人間は粗末に扱ってもいいと思っているからだ。
自分で自分に価値を見出していないので、自分ではないものに自分以上の価値を見出し、そのものの量をもって自分の価値としようとしてしまう。自分を肯定できていない、自分を大事な存在だと思えていないので、自分のことは粗末に扱ってもいいと思ってしまう。だから自分で自分のために動く必要はないと思っている。自分の身の回りのものを整えるために自分は動く必要はないと思っている。その結果、諸々のものが乱れっぱなしになり、あっぱらぱーな生活になる。
つまり、自分が自分のことをどの程度大事に思えているか、その程度にふさわしい日常生活が自ずと形成されてくるわけだ。
人やものに恵まれて平穏な暮らしを送っている人は、放っておくと乱れていく物事を自分で自分のために整える習慣が身についているからこその結果だし、孤独で貧相で荒れ狂った生活を送っている人は、自分で自分を大事にせず、自分で自分のことを粗末に扱ってもいい存在だと思い、自分で自分のために動くことを惜しみ、乱れていくものを放置し続けたからこその結果なのだろう。
逆に言えば、自分の日常生活の整い具合、荒れ具合を見つめることによって自分は自分のことをどう扱っているのかということがわかってくる。
じっと部屋を見回す。
やべぇどす。