おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

日常の前提

日常生活の乱れは、自分が自分のことを大事に思えていない、自分が自分のことをを軽視していることが根本原因で、逆に自分のことを大事に思えていて、自分を大事にできるのは自分しかしないということがわかっていれば、自ずと日常生活は整いの方向へ向かう。自分に価値を置けているから日々を整えていこうと思える。

 

(んじゃあ、どうして自分に価値を見いだせないのかというと、人を認める基準が高く、平凡なことには価値がないと思い込んでいるからのなのだけれど、そういうことについてはここでは割愛する)

 

自分がおこなっていること、自分の習慣は、自分のことを軽視しているからしていることなのか、自分のことを大事に思っているからしていることなのか。時々、自問する価値はある。

 

例えば食事。

 

ジャンクフードが体に悪いことは周知の事実であるが、それでも毎日のように食べ続けられるのは、自分のことを大事に思えていないからだ。価値のない自分にはこんなものでいいだろう、価値のない自分のために料理をするのは時間と労力の無駄だ。

 

例えば飲酒。

 

どんな酒であろうとそれが酒である限りそれは体にとって有毒なのだけれど、それでも酒を毎日のように飲んでしまったり飲み過ぎてしまったりするのは、自分のことを大事に思えていないからだ。価値のない自分に毒物を大量に摂取させたところで、どうということはない。むしろ酒に酔うことができれば、価値のない自分を見ないで済むので助かる。

 

例えば掃除。

 

自分が泊まるホテルの部屋が汚部屋だと自分は敬意を払われていないと感じる一方で、自分の部屋が汚れっぱなし散らかりっぱなしというのはよくあるが、自分の部屋を掃除する気になれないのは自分のことを大事に思えていないからだ。価値のない自分には汚部屋で十分だろう、価値のない自分のためにわざわざ時間と労力をかける必要はない。

 

例えば浪費。

 

お金は自分の時間と労力を使って得ているものではあるが、自分のことを大事に思えていないということは、自分の時間も労力も大事に思えていないということで、つまりそれは時間と労力を使って得たお金も大事に思えていないということで、だからこそ実際には使わないもの=ゴミ=価値のないものにお金を使ったり、他人を見下すためのものにお金を使えたりする。自分に価値を見いだせないが故に、自分ではない価値あるもので自分を飾り立てることにより自分のことを価値のある人間だと思い込もうとしている、アッピールしようとしている。そうして時間も労力もお金もぐんぐんと浪費され、お金があろうがなかろうが常に不足感に苛まれる。

 

例えば運動。

 

自分のことを大事に思えていれば当然自分の体も大事にしようと思えてくる。そして体を大事にするためには適度な運動が必要になる。体はきちんと使ってあげてこそ大事にすることができるわけで、脂肪が溜まる一方ということは、体をきちんと動かしていないために摂取したエネルギーを使い切れていない。適度な運動を行えないのは自分のことを大事に思えていないからだ。価値のない自分の身体なのだから大事にする価値はない、価値のない自分のために時間と労力をかけるのは無駄だ。

 

例を挙げればきりがないが、いずれにせよ、自分のことを大事に思えているかどうかで日々の行動や習慣は大きく変わってくる。

 

日常を整えたかったら、どんな状況のどんな状態の自分であろうと、少なくとも自分で自分のことを大事に思う必要がある。自分で自分のことを大事にしていこうと心がけていく必要がある。自分を大事にするべきなのは他人ではなく自分であるという前提に立つ必要がある。そして日々の言動は自分を大事にすることにフォーカスされているかを確認する必要がある。(逆に、日常が乱れがちということは、自分で自分のことを軽視している、自分で自分のことを価値のない人間と思い、だから大事にしなくてもいい人間と思っているきらいが強いということにもなる。)

 

自分のことを大事にするというと、「自分のことを大事にするため」という名のもとに自分の全ての言動を正当化してしまい、時として、他人を粗末に扱うことも正当化しようとしてしまう弱さが私たちにはある。

(ちなみに自分を大事にすることと他人を粗末に扱うことは仏教的には絶対に両立しない。むしろ他人を粗末に扱うことは自分を粗末に扱うことになる。)

 

大事にするといっても、私たちは「大事にする」ということは一体どういうことなのか、ということをあまり考えないまま、「自分なり」に大事にしてしまい、仏から言わせると、自分を大事にしているようで全然大事にしてないじゃんけ、おれっち悲しいじゃんけ、ということも多々ある。

 

日々、試行錯誤どすな。