おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

『悪魔の傾聴』という本を読んだ


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仏教では、大事なものや大事な人を大事にすることに幸福はあると説く。

 

「人の話をちゃんと聞く」という能力は、相手を大事にするために必要な能力だと思ったため、先日『悪魔の傾聴』という本を読んで、傾聴について勉強してみた。

 

学んだことの一部を忘れないように書き留めておこう。

 

大事だな思ったことは以下の3点

 

 ①相手の話の邪魔をしない

 ②相手が話しやすいようにする

 ③相手の話を物語として楽しむ

 

①相手の話を邪魔しない

 

人は話をしたいという大きな欲望があり、話をすると気持ちよくなる。

 

傾聴は相手に思う存分話をして、気持ちよくなってもらうことだ。

したがって、相手の話を邪魔してしまうとそれは傾聴ではない。

 

相手の話を邪魔しないように、自分の話はしないこと自分の意見は言わないこと相手にアドバイスしないことが必要になってくる。

 

つまり、相手を聞き手にして、自分が話し手になるようなことはしてはならない。自分が話をして、話をしたいという欲望を自分が満たしてしまうと本末転倒なのであーる。

 

②相手が話しやすいようにする

 

相手が話したいことを話せるように、こちらはサポート役に回る必要がある。環境を整え、会話に潤滑油を差してあげる必要がある。

 

そのためにまずは、相手の話を否定しないこと比較しないことが重要になる。

否定や比較をしてしまうと、その瞬間に自然と自分の話をしてしまうようになるし、否定した瞬間に相手は話すモチベーションが一気に下がる。

 

そして、話し手それぞれにはその人なりの話すリズムというものがある。話し手が自分のリズムで気持ちよく話すことができるように、聞き手側は適度な相槌や質問や笑いを使って相手のリズムに合わせてあげることを意識しなければならない。

 

また、実際に話を聞く場所や座席の位置も重要だ。

場所は話し手の日常に近い場所ほど適切で、話し手の真正面に聞き手がいない位置で話をしてもらうほうが望ましい。

 

場所であれば、話し手の自宅や近所の店、話し手がよく行く店などが良い。

座る位置は、聞き手は話し手の斜め向かいに座るか、横に並んで座るかだ。

 

③相手の話を物語として楽しむ

 

「傾聴」と聞くと、相手ばかり話をして相手ばかり気持ちいい思いをしてずるいじゃんけ、という我利我利亡者のような発想をしてしまうかもしれないが、聞き手は聞き手で相手の話を一つの物語として楽しめばいいじゃんけ、と思う。

 

相手の発言からその背景にある相手の欲望、相手の感情、相手の生活を聞き出せるように質問を投げかけていく、深掘りしていく。

 

質問する際には、相手が発した言葉と関連性のある質問を投げかけるようにする(これをピックアップクエスチョンというっぽいぜ)。

 

相手は自分の話なので基本的に気持ち良く話してくれる。聞き手は「相手からどんな話を聞けば、自分は面白いか?」という観点で、質問を投げかけ、面白い話を求めていく。「世界は自分がわからないことだらけ」と自覚し、知らないことを教えてもらって楽しんでいく。

 

そうすると、話し手も気持ち良い、聞き手も楽しいというウィンウィンの会話が成立する。もちろん、重い話になるかもしれないけれど、それはそれで物語のかけがえのない一部なのでしかと味わっていく。

 

時々、あの人の話は面白くないと不平不満を言う人がいるが、それは話し手が面白くないのではなく、聞き手の傾聴力が欠けているからなのだろう。私もその点は反省しなければならないなー。

 

話し手の物語を尊重する

 

人が自分について語ること。それは立派なその人の物語だ。

そこに聞き手の独善的な価値観を介入させる余地はない。それは傲慢以外なにものでもない。

 

時として話し手は黒いものを白いものとして見ていることもあるかもしれないが、聞き手が「それは黒でごわす」と指摘する必要はない。自分の価値観を語る必要はない。少なくとも傾聴中にその余地はない。

 

聞き手は「話し手にとってその黒は白に見えている」という「事実」を淡々と受け入れていけばいい(仏教的にいうと、聞き手が黒と主張しているそれは本当に黒なのかという疑問の余地もある)。

 

自分の価値観を語り、アッピールすることで相手からの信頼を得たいという魂胆もあるかもしれないが、本書曰く、「信頼は相手からされることであって自分から働きかけて得るものではな」く、「相手の話を傾聴する過程で自然発生的に育まれる必要がある」とのことだ。肝に銘じておきたい。

 

あ、そうだ、そういえば本書に以下のような記述があった。

 

「自分のフィルターを通して理解している」ことを前提に、「自分のフィルターを限界まで薄くしていく意識」が、現実的な解決策でしょう。

 

これは仏教の唯識に通じる考え方だ。

 

私たちは目の前のエアコンであれ、人の話であれ、必ず「自分のフィルター」を通して物事を認識している。そしてこの「自分のフィルター」というのがいわゆる「心」だ。

 

心のフィルターを通して物事を認識しているということは、私たちは心のフィルターの中で生きているということになる。見えているものはすべて心の色を投影しているということになる。自分の心が黒色ならば世界は黒色に見えるし、世界が黒色に見えるのであれば自分の心は黒色だということになる。

 

つまり「自分のフィルターを限界まで薄くしていく」と、心は限りなく透明になり、その分、物事をありのままに捉えることができるようになる。物事を捉える際に自分の色味や都合が混ざりにくくなる。

 

物事を歪みのないありのままに捉えることができれば、その正確な情報に基づいて正確な判断を行うことができるようになる。そうすることができるようになるのが菩薩や仏といわれる境地にある人だ。菩薩や仏ってまじですごいなー。

 

んじゃあ、どうすれば自分のフィルターを限界まで薄くすることができるのか。

 

なんか思った以上に長くなりそうなので、ここで終わります。