どれだけ精緻に作り込まれた高品質のシステムであろうとも、不便でユーザからまったく利用されなければ、採算もとれず、めでたく「失敗プロジェクト」の仲間入りです。
ミック 木村明治『おうちで学べるデータベースのきほん』
上の文章を日常生活のために書き換えるとすれば以下のようになる。
どれだけ精緻に作り込まれた高品質なものであろうと、全く使っていなければ、採算もとれず、めでたく「失敗プロジェクト」の仲間入りです。
私たちはこれは必要だ、これは欲しいと思ってものを買う。
それはそれで問題ない。
しかし、買ったものをきちんと使っているのか、という確認作業がおこなわれず、その買い物が有意義なものだったのか失敗だったのかが曖昧なまま、ものを買い続ける。
欲しいぽよ、必要だぽよ、と思って5万円の高級シャーツを買ったとする。
そのシャーツを定期的に着ているのであれば、その5万円が活きており、その5万円を手に入れるために費やした時間と労力が活きており、そういう意味で採算がとれており、その買い物、その調達プロジェクトは成功と言える。
しかしながら、そのシャーツをほとんど着ていない、全く着ていないのであれば、その5万円は活かされておらず、その5万円を手に入れるために費やした時間と労力も無駄になっており、そういう意味で採算がとれておらず、その買い物、その調達プロジェクトは失敗と言える。
つまり、身の回りの使っていないものというのは自分の失敗プロジェクトなのだけれど、その失敗を受け入れたくない、失敗するという自分の一側面を受け入れたくないが故にものを捨てることができない。
自分は正しい人間だぽよ、そういう正しい自分が必要と思い、欲しいと思ったのだからこの買い物は間違いないぽよ、というように「自分の正しさ」に執着しているからものを捨てることができない。
失敗プロジェクトを改善していくためには、それが失敗プロジェクトであったということを認める必要がある。
失敗プロジェクトをいつまでも握りしめていると、改善に向けた新たなプロジェクトに取り掛かることができないため、失敗プロジェクトは手放す必要がある。
私の最近の失敗プロジェクト、つまり、「買ったはいいもののほとんど使っていないもの」は何かしらん。
S&Bのカレー粉だぽよ。
今日の夕飯はカレーにしよう。