おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

人を認める基準が自分を認める基準

先日、町田そのこさんの『星を掬う』を読んだ。同書に以下の一文があった。

 

弥一は、『素晴らしい才覚をもって成功する自分』という輪郭のない幻のような自己像があって、それを盲信していた。

 

この弥一というのは、常に何かでかいことをやることを夢見て、種々様々なビジネスやギャンブルに手を出しては失敗し、金に困窮し、金に困窮しては主人公の女性のもとへやってきて、暴力を振るっては金を毟り取っていく。

 

彼は何らかのかたちで大金を手に入れることで頭がいっぱいで、そして彼は自分は大金を手に入れることができる能力のある人間であると思い込んでいる。

 

弥一にとって人生は金が全てで、彼の世界は金持ちかそれ以外かで構成されている。

 

大金を持っている者は価値があり、大事にされる。

それ以外は価値がなく、見捨てられる(馬鹿にされる、見下される、責められる、否定される)。

 

彼はそのような線引で世界を見ているのかもしれない。

 

そして、金さえあれば人から大事にしてもらえる、人から認めてもらえるという一心で、言い換えると、大金を稼がなければ人から見捨てられる、人に相手にしてもらえないという大きな不安を原動力として、多様なビジネスに手を出して失敗し、その不安につけこまれてきな臭い連中に金を騙し取られていき、一向に窮乏から抜け出せない。

 

そして、金がなくなると元妻のところに押しかけ、暴力を振るい、消費者金融で借金をさせようとし、金を強奪し続けても、最終的にその金を軍資金にして、何らかの形で大金を手に入れさえすれば、全て許されると思っている。

 

なぜなら、彼は「大金を持っている者は価値があり、大事にされる」という思いこみの中で生きているからだ。

 

元妻は金持ちじゃないので価値がない。粗末に扱ってもいい、どんなに苦しめても、傷つけてもいい。そしてどんなに他人にひどいことをしても、大金を手に入れ価値のある人間にさえなれば、全てチャラになり、相手は自分を愛してくれると思っている。自分は成功者になれるのだから、今どんなにひどいことをやっても後でどうにでもなると思っている。

 

無論、それは彼の妄想に過ぎない。

 

ぞっとする。このひとは、わたしがそれで喜ぶと思っている。感情に任せて暴力を振るい、金を毟り取っていくだけの自分が、まだわたしに愛されていると信じているのだ。

 

仮に万が一、弥一が億万長者になったとしても、金さえあれば何をやっても良いという思想で生きている人間のことを本当に大事にしたいと思える人間は菩薩か仏以外には誰もいないだろう。

 

彼に寄ってくる人間は「金」が大事なのであって、「弥一」本人を大事にしようとは思わないはずだ。

 

そして本人も、金を失うことは価値のない人間になることであり、価値がないということは人から見捨てられるという思想で生きているが故に、より多くの金を手に入れなければという強迫観念に駆られたり、金を失う不安に苛まれたりして、心の平穏は一向に訪れず、延々と苦しみ続けることになる。

 

彼の妄想は極端かもしれないが、私たちも似たり寄ったりの妄想の中に生きていることが多い。

 

もっと金があれば、もっと偉くなれば、もっと才能があれば、もっと美人になれば、もっと筋肉があれば、もっとオシャレになれば、もっと知能があれば、もっと資格をとれば、もっとスキルがあれば、もっといい学校に行けば、もっとブランド品を手に入れれば、もっと目新しい体験をすれば、もっと高級な車に乗れば、もっと有名になれば、もっと広い家に住めば、もっと知識があれば等々、何でもいいが、価値のあるものを手に入れれば、その分人から大事にされると段違いな勘違いをしている。

 

私たちは「おれはこんなに価値あるものを持っているこんなに価値のある人間なんだ」ということを何らかの形で多かれ少なかれアッピールすることによって、人から大事にされようともがきながら日々を生きている。

 

だけど、そのアッピール材料が人から大事にされるための有効な手段にはなることはほとんどない。

 

価値あるものを持っている、ただそれだけの話で、その人そのものを大事にしたいと思うかどうかは別次元の話だ(金正恩は富も地位も権力も持っているが、富や地位や権力そのものには確かに価値があるけれど、ただそれだけで彼のことを本当に大事したいと思うかどうかは別だろう)。

 

価値があるものを手に入れれば人から大事にされる、という誤った思想は、「私は価値のある人間は大事にするが、価値のない人間は見捨てる」という自分の日々の冷酷な思想から生まれている。

 

自分自身が人を価値のある者と価値のない者に分け、価値のない者に対して冷酷であるからこそ、その冷酷さがシビアな分だけ、価値のない人間にならないように、必死に価値を求めて奔走する羽目になる。

 

弥一自身も、成功した大金持ち以外は認めないという思想に染まっているからこそ、価値のない人間になって見捨てられないように、成功して大金持ちにならなければならないという強迫観念に駆られ、その結果、多くの人を傷つけ、何よりも成功して大金持ちになっていない自分を責め続けるという苦しい日々を送ることになっている。

 

自分が日々思っていることが、自分に適用されて、自分の世界が形作られる。自分が人を認める基準は、自分にも適用される。

 

人を認める基準は低いに越したことがない。ここでいう認めるというのは、「あなたはここにいてもいい」「あなたはここに存在していてもいい」という意味の肯定するという意味だ。

 

人を肯定する基準が高いと、「その基準を満たしていない人間は価値がない、この世からいなくなったほうがいい」という発想となり、その発想は自分にも適用され、「その基準を満たさなければならない」という強迫観念を生み、「その基準をいずれ満たせなくなるのではないか」という不安を生み、「その基準を満たせていない自分はダメだ、この世にいてはいけない」という自己否定を生み、必ず苦しみを生み出す結果となる。

 

一方で、人を認める基準が低いと、自分を肯定しやすくなる。自炊をしている、夜に寝て朝起きている、息をしているとか、極めて平凡な基準で人を認めることができると、その分自分のことも肯定しやすくなる。そして自分が人から肯定されると嬉しいように、人もやっぱり肯定されると嬉しい。それもハードルが低い基準で肯定してもらえるとプレッシャーもないので安心感を得ることもできる。自分を肯定し、安心感を与えられるようになると、自然と人から大事にしてもらえやすくなるだろう。

 

よし、強制的にまとめよう。

 

私たちは、人から大事にしてもらおうと価値あるものをかき集めようとするが、価値あるものをかき集めたところで、人から大事にされることはない。

人を認める基準は自分にも適用されるので、その基準は低いに越したことはない。

人を認める基準を低め、人を些細なことでも肯定していくと、人から大事にしてもらいやすくなる。

 

でも、弥一のようなガチガチの拝金主義者はどうしても金持ちか否かの価値基準しか持ち合わせておらず、どんなにこちらが些細なことで肯定しても、その声は届かない。むしろ、大金を持ち合わせていないこちら側を価値のないものとして粗末に扱ってくるだろう。

 

しかし、それはそれで相手の問題だ。相手は相手で、相手自身が設けた自分の価値基準で苦しむだけだ。こっちができることは相手からの実害が及ばないよう距離を取るしかないかもしれない。

 

自分が人を認めるハードルが苦しみを生み出しているのであれば、自分が人を認めるハードルはどの程度のものかを日々意識するのは有意義なのかもしれへんどす。

 

以上どす。