おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

いかに優越感を得られるかという幸福観

先日、川上未映子さんの『夏物語』を読んだ。同書に以下のように書かれていた。

 

きれいさとは、良さ。良さとは、幸せにつながるもの。幸せには様々な定義があるのだろうけれど、生きている人間はみんな、意識的にせよ無意識的にせよ、自分にとっての何かしらの幸せを求めている。どうしようもなく死にたい人でさえ、死という幸せを求めている。自分というものを中断したいという幸せを求めている。幸せとはそれ以上を分けて考えることのできない、人間の最小にして最大の動機にして答えなのだから「幸せになりたい」という気持ちそのものが理由なのだと思う。

 

私たちは一人ひとり幸せの定義を持ち合わせているかもしれないが、私たちの幸福観に共通しているのは優越感を得て幸せになるというものだろう。

 

何らかの形で優越感を得られている人は、自分を肯定することができ、それが幸福感になる。

 

そして優越感を得られない人は、こんな自分はだめだと自己否定に陥り、苦しくなり、その苦しみから開放されたくて、自分というものを中断したいと思ってしまう。

 

優越感や劣等感は自分なりの勝手な基準に基づき、人と比べることによって生じる。

 

豊乳かどうか、美乳かどうか。結婚しているかどうか。子どもはいるかどうか。子どもを作れる能力があるかどうか。いい暮らしをしているかどうか。稼いでいるかどうか。売れているかどうか。他人からの評価を得られているかどうか。

 

仲良く話してるふりしてるけど、相手が自分よりいい生活していないかどうかいっつも監視しあってんの。服とか靴とか、夫の稼ぎとか子どもの習い事とかね。いい歳して田舎の女子校みたいなことばっかだよ

 

他人と比べていかに優越感を得るか、それが私たちの幸福観であり、他人を見下すことによって得られる高揚感こそ幸福感であると勘違いし、私たちはネバギバの精神で時間とお金と労力を使って何らかの形で優越感を得ようと頑張っている。

 

優越感を得るためには、簡単には手に入らない希少なものを手に入れたり、人には真似のできない特別なことをできるようになる必要がある。

 

優越感を求める私たちは希少なものしか評価せず、特別なものしか価値を認めない。ありふれたものを持っていたり平凡なことができたりしても、それらは優越感=高揚感=幸福感につながらないので、眼中にない。アウト・オブ・眼中。

 

優越感は中毒性があり、優越感を得られている間は自分を肯定でき、心が安定するが、その安定を維持するためには常に人より上であること必要があるので、その場は気持ちが良いかもしれないが、長期的にはすごく疲れる。

 

一方で優越感を得られなくなるとこんな自分はだめだと自分で自分を否定してしまい苦しくなるし、他人からも見下されているような気がしてしまう。そういう不安と恐怖に駆り立てられて優越感を求めるようになってしまうので疲れる。

 

常に人よりも上に立つというのは諸行無常の理によって不可能なのにも関わらず、その真理に抗うことになるからな。真理に抗うと消耗するだけだ。

 

また、何かを手に入れて優越感を得ることができなければ、他人を否定して自分の正しさを証明しようとすることで優越感を得ようとする。むしろ、このやり方のほうが手っ取り早く優越感を得ることができるので、我々はついついやってしまいがちだ。

 

テレビのニュースやワイドショーは「この人はダメな人間ですが、そうではないあなたはまともで正しい人間です」というメッセージを発しており、ただそれだけ気持ちがいいのでついつい見てしまうのかもしれへん。

 

人のことを見下したり、人の存在を否定すると、「自分は価値のある人間」だということを感じることができて確かに気持ちがいいのだけれど、それはゴータマ先輩から言わせると自傷行為であり、自分自身を苦しめる行為でしかない。

 

私たちは目の前の相手を自分の心のフィルター越しに捉えている。そのフィルターは人それぞれ色合いや質感が異なるため、対象が同じ人物であっても、人によってその人物から受ける印象は異なる。つまり、私たちは相手を見下したり否定したりして相手を攻撃しようすると、必ず自分の心のフィルターを攻撃することになる。

 

それはリストカットと同じで、傷をつけた瞬間は気持ちがいいのかもしれないけれど、その気持ち良さが去った後はただただ痛くて苦しいだけだ。人を誹謗中傷している間は気持ちが良いけれど、しばらくするとどことなく気持ちが悪いのはそういうことなのだろう。

 

やべえ、話がまとまらなくなってきた。

 

とにかく、優越感を求める生き方は最終的に苦しみを生む。私たちは、希少なものや特別なものを手に入れて人を見下そうとしてしまうし、何らかの形で人を見下して自分の優位性を確かめようとしてしまう。

 

まずは自分の優越感を求めようとする傾向に気づき、自分の苦しみは自分のそういう傾向によって生み出されているということに気づくこと。

 

そして、そういう傾向があることを正当化せずに、そういう傾向があるということを受け入れること。

 

また、希少ではないけれど大事、特別ではないけれど大事、人から褒められるわけではないけれど大事、至極平凡だけれど大事、その手の大事なことやものの方に価値を置いていくこと。

 

つまり、日常的に使っているものや人を大事にする、健康的な生活習慣を身につける、そういうザ・普通のことをきちんとやっていくことに価値を置けば、自分で自分を大事にできていることになり、自分で自分の価値を認めやすくなるため、人からの特別な評価は必要ではなくなっていく。

 

まぁ、そんな感じだ。(全然まとまらんぜよ)

 

以上っす。