おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

相手を通して見える自分を受容していく

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先日、二村ヒトシさんの『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を読んだ。同書に以下の一文があった。

 

女性に悪いところや弱いところがあることを許せないということは、二村さんが自分の中の悪いところや弱いところがあることを受容していないからだと思います。自分にも悪いところや弱いところがあることを許せたら、女性に菩薩を貼りつける必要もなくなるんじゃないでしょうか。

 

これは同書の巻末に収められている著者との対談において、著者が心理カウンセラーみたいな感じの人に言われたことだ。

 

これは我々が物事を捉える仕組みそのもので、仏教が説く我々の物事の認識の仕方と共鳴している。

 

私たちは物事を見る時に、そのものを直接見ているわけではなく、自分の心のフィルターを通して見ている。

 

同じものであっても、Aさんが見るとそれは赤色に見えるし、Bさんが見ると青色に見える。そういうことってよくあるよね。

 

私たちはそのもの自体が赤なのか青なのかをはっきりさせることに夢中になることが多いが、そんなことはどうでもいい。

 

Aさんにはそれは赤に見える、Bさんにはそれは青に見える、Aさんにとっての現実があり、Bさんにとっての現実がある、ただそれだけだ。

 

問題はどうしてAさんにはそれが赤に見えるのか、そしてそのことによってAさんは苦しんでいるのか、苦しんでいるとしたらどうしてなのか。Aさんの物事の捉え方の傾向、そしてそれによって生じる苦しみや幸福、それが問題だ。

 

Aさんにとって物事が赤く見えるのは、Aさんの心のフィルターが赤いからだ。言い換えると、Aさんの内面に赤い部分があるから物事が赤く見えている。もっと言い換えると、普段目にしたり接したりする物事には己の心が投影されている。

 

そして、Aさんが赤色に対し寛容であれば、つまり物事に投影されている自分の心の一側面に肯定的であれば、その物事と心穏やかに付き合うことができる。逆に、Aさんが赤色に対し冷酷であれば、つまり物事に投影されている自分の心の一側面に否定的であれば、その物事は心をかき乱し、怒りを生み出す。

 

私たちは相手を通じて必ず自分の内面を見ている、とも言える。

 

例えば、ある人から「ここ間違ってるよ」と指摘されたとする。その時に「ありがたい」と思うか「馬鹿にされた」と思うか。こちらが「ありがたい」と思おうが、「馬鹿にされた」と思おうが、相手が実際にどのような気持ちで間違いを指摘したのかは絶対にわからない。それなのに私たちは相手はこういう気持ちで指摘したに違いないと勝手に思いこみ、決めつけ、それによって喜んだり苦しんだりする。

 

その思い込みが自分の現実、世界となる。

 

ありがたいと感じることが多い人はありがたい世界に住んでいることになるし、馬鹿にされたと感じることが多い人は馬鹿にされる世界に住んでいる。

 

なぜそう思い込むのかというと、自分が普段からそういう思いを起こしているからだ。例えば、何かを指摘する時に自分が普段から温かい気持ちで指摘することが多ければ、他人から指摘された時にありがたいと思えるし、相手に感謝しやすくなる。逆に、自分が普段から相手を見下す気持ちで指摘することが多ければ、他人から指摘された時に馬鹿にされたと感じやすくなり、相手に否定的な気持ちが生まれやすくなる。

 

まぁ、こんな感じで、とにもかくにも私たちは相手を通じて普段の自分の内面が見えるわけだ。言い換えると、自分が普段起こしている思いによって自分の世界の見え方が変わってくる。逆に、普段の自分の思いを知るためには目の前の現実や相手を自分はどのように捉えているのかを考えてみるといい。

 

相手(世界)を通じて見えているのは必ず自分。

 

つまり、相手の許せない部分は自分が許せない自身の部分。

 

誰かに嫌悪感を感じた時、その相手の嫌いな部分は確実に自分にもある。

 

そしてその時に見えた部分を自分の大切な一側面として、あー、おれにもこういう部分ってあるよなー、あいつもおれも大差ないなー、と受容することができたら、自分が自分に寛容である分、相手にも寛容に接することができる。

 

私たちは心のフィルターを通して相手を見ている。そして相手を通して見えているのは自分である。このことを理解していないと、相手に嫌な部分が見えた時、相手を容赦なく攻撃してしまうことになる(心の中で容赦なく責め立ててしまう)。そして、実際に攻撃しているのは相手そのものではなく、自分の心のフィルターに映し出された相手であり、つまりそれは自分の心を攻撃していることになる。

 

このことが理解できると、人を責めたり、見下したり、否定するメリットがだんだんと見い出せなくなってくる。人を否定するということは自分を否定することになり、自分を否定するということは当然自分に苦しみをもたらすことになるからな。

 

すると自ずと「他人のために他人を否定しない、肯定する」という綺麗事ではなく、「自分のために他人を否定しない、肯定する」という現実的な心がけに努めるようになる。その結果、他人=自分のことも肯定でき、許せるようになってくる。

 

私は脳髄ががらんどうであるため、上記のことは仏教を通じてささやかながらに学んだが、二村ヒトシさんの同著書には、仏教に相通じることがたくさん述べられており、とても有益であった。

 

なんかうまくまとまらないなー。

よし、終わります。