おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「異常」を否定しながら生きている

先日、朝井リョウさんの『正欲』を読んだ。同書の中に以下の一文があった。

 

・「自覚しているもんね。自分たちが正しい生き物じゃないって」

・「自分に正直にとか言われても、その正直な部分が終わっている。俺は根幹がおかしい」

 

これはいわゆる”異常性欲者”として描かれている登場人物の言葉だ。

この人物は自分の「異常性」を受容しておらず、こんな私はダメだと自分を否定している。

 

この小説の中にはいわゆる「正常な人」と「異常な人」が出てくる。

 

正常な人は正常な人なりに異常な人を異常であるとして責め立て、否定する。

そして、異常な人は異常な人なりに異常な自分を自覚し、責め立て、否定する。

 

このように同小説の主要な登場人物はみんな「正常」「異常」に関わらず、自分は正常な人間であるという立場に立って異常な人間を馬鹿にし、見下し、責め立て、否定しながら生きている。

 

正常な人間は異常な人間を否定して、自分が正常な人間であることを確認し、隙あらば「私は正常な人間だ」ということアッピールしようとしているし、自分が異常な人間にならないように、異常な人間だと思われないように一生懸命努力している。

 

異常な人間はこんな異常な自分はダメだ、生きていてはいけない、存在価値がない、生きている意味がないとして、自分を否定しながら生きている。そして正常であることを欲しているが故に、正常な社会や正常な他人を恨みながら生きている。

 

結局、両者とも自分なりに世界を正常な人間と異常な人間に分け、正常な人間の方に価値を置き、異常な人間は価値がないとして、異常なものを常に否定しながら生きている。だからみんな息苦しそうだ。

 

私たち人間には、自分勝手に基準を設け、自分勝手にこうじゃないといけない、ああじゃないといけないと思い込み、その基準を満たさない人間を徹底的に否定する傾向がある。

 

同小説には、異性ではなく水に性的に興奮する人物が出てくるが、彼らは水に欲情することを異常とみなし、恋愛経験や結婚の経験ができないことを異常とみなし、そういう彼らなりの正常の基準を満たせない自分自身を誰よりも自分自身が否定している。

 

従って、水に欲情する彼らが仮に水に欲情しない異性愛者(彼らなりの「正常な人間」)であった場合、彼らは「正常な人間」として正々堂々と、水に欲情する他者を異常だ、気持ちが悪い、消えてしまえと徹底的に否定するだろう。

 

なぜなら、正常な人間であろうと異常な人間であろうと「異常者は否定されて当然、責められて当然、馬鹿にされて当然、見下されて当然」という根本的な思想を共通して持っているからだ。

 

話を小説世界から現実世界に切り替えてみる。

 

先にも述べたように、私たちは世界を勝手に価値のあるものと価値のないものの2つに分け、そのどちらか一方を否定しながら生きている。

 

そして私たちは必ず自分の心のフィルターを通して物事を把握している(だから、同じ物事でも見る人によって解釈や捉え方が異なる)。

 

ということは、自分が勝手に2つに分けて肯定したり否定したりしている物事も自分の心のフィルター上に映し出されたものだ。そして、自分が価値がないと思って何かを否定する時、それは自分の心のフィルター上に映っているものを否定することになる。つまり、自分で自分の心を攻撃することになる。何かを否定し、責め立て、見下し、馬鹿にすることは、自分の心を攻撃するのと同じだ。だから苦しい。

 

苦しみは何かを否定しているところから来る、というメカニズムがわからないままだと、苦しみが生じた時にその原因を他者に求めてしまう。

 

あいつが改心すればおれの苦しみはなくなる、あいつが消えればおれの苦しみはなくなる、おれのこういう部分がなくなればおれの苦しみはなくなる、みたいな感じで、ますます何かを否定し始める。そしてもっと苦しくなる。そしてその原因を他者に求める。そしてもっと否定する。そしてもっと苦しくなる・・・(以下、その無限ループ)。

 

小説の登場人物たちも何かを心に思い浮かべてはそれを否定しながら生きているので苦しいのは当然だ。

 

この苦しみから抜け出すには、どこかのタイミングで何かを責めたり、否定しても現実は何も変わらない、むしろ悪化していくだけだ、そして何よりも自分が苦しむだけだということに気が付かなければならない。そして、自分がこれまで否定してきたものを受け入れ、肯定していく方向へ舵を切らなければならない。

 

・「社会を恨むことにももう疲れてきたんです」

・「あってはならない感情なんて、この世にないんだから」

 それはつまり、いてはいけない人なんて、この世にいないということだ。

 

同小説の一部の登場人物は、自分なりの正義や思い込みで何かを否定したり馬鹿にすることをやめようとしていった。そして、否定されない人間関係、どんな思いや考えや感情も肯定される人間関係を築いていく方向へと切り替えていった。

 

これは仏教的にも理にかなった心がけだ。

 

私も何らかの苦しみが生じた時、自分なりの正義や思い込みで何かを否定したり馬鹿にしていないかしらん、とまずは反省するように心がけていこう。

 

そして、あわよくばどんな思いや考えや感情も肯定される人間関係を築いていきたいものどす。

 

以上どす。