おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

割に合わない快楽的中傷

先日、又吉直樹さんの『火花』を読んだ。同書に以下の一節があった。

少し長いが、引用するさかい。

 

「だけどな、それがそいつの、その夜、生き延びるための唯一の方法なんやったら、やったらいいと思うねん。俺の人格も人間性も否定して侵害したらいいと思うねん。きついけど耐えるわ。(中略)人を傷つける行為ってな、一瞬は溜飲が下がるねん。でも一瞬だけやねん。そこに安住している間は、自分の状況はいいように変化することはないやん。他を落とすことによって、今の自分で安心するという、やり方やからな。その間、ずっと自分が成長する機会を失い続けていると思うねん。可哀想やと思わへん? あいつ等、被害者やで。俺な、あれ、ゆっくりな自殺に見えるねん。薬物中毒と一緒やな。薬物は絶対にやったらあかんけど、中毒になった奴がいたら、誰かが手伝ってやめさせたらな。だから、ちゃんと言うたらなあかんねん。一番簡単で楽な方法選んでもうてるでって。でも、時間の無駄やでって。ちょっと寄り道することはあっても、すぐ抜け出さないと、その先はないって。面白くないからやめろって」

 

これは、お笑い芸人の主人公の師匠である神谷が、ネットで人のことを人間の屑のように書く人について語った言葉だ。

 

人を傷つけようとするということは、他人を価値のないものにすることによって、相対的に自分は価値のある人間だということにしようとしているということだ。人を否定したり、見下したりすることによって、「自分は価値のある人間だぽよ」ということを人にアピールしたり、自分を肯定しようとしている。

 

だから人を傷つけようとする行為は気持ちが良い。

 

人を傷つけようとすることによって「自分はあいつと違って価値のある人間だ」ということを感じることができる。中毒的な気持ち良さがある。

 

でも、それは一瞬の高揚感でしかない。まさにドラッグと同じだ。

 

しばらくすると、自分を肯定できなくなってくるので、手っ取り早く否定したり見下したりできる対象を探し、見つけ次第、誹謗中傷を開始し、一時の快楽に浸る。

 

誹謗中傷はまさに手軽なドラッグのようなものなのであーる。

 

誹謗中傷はネットでの書き込みに限らない。

 

実際に人に見える形で書き出さなくても、人に聞こえる形で口に出さなくても、心の中で人のことを見下していたり、軽く扱っていたり、否定していたりしていると、それは誹謗中傷中毒に陥っているということになる。

 

そして私を含め我々のほとんどが程度の差こそあれ誹謗中傷中毒に陥ってしまっている。

 

仏教からすると、人を傷つけようとする行為(心の中の行いも含む)は自傷行為であり自殺行為でしかない。

 

私たちは相手を自分の心のフィルター越しに捉えており、そのフィルターには自分なりの偏見が加わった相手の像が映し出され、それを相手そのものであると錯覚して認識している。自分が捉えている相手というのは自分の心によって歪められた像であり、その像を攻撃するということは自分の心を攻撃するということになる。

 

相手を傷つけて自分の価値を確認しようとする行為は、ゴータマ先輩からすると、自分の心を傷つけて自分の価値を確認しようとしている行為に他ならず、それはいわばリストカット中毒のようなもので、愚かで可哀想な行為なのであーる。

 

だけどもだっけっど、私たちは相手を傷つけようとすることがやめられない。なぜか。それは私たちが「価値のない人間は存在してはならない」と思っているからだ

 

私たちは人を2つに分けて生活している。「価値のある人間」と「価値のない人間」だ。そして「価値のない人間」がこの世からいなくなれば世界は良くなると思っている。そう思っているからこそ、私は「価値のない人間ではない、私は価値のある人間だ」ということを他人にアッピールし、そう自分に言い聞かせ、「自分は価値のある人間だからこの世に存在してもいい」と自分を肯定する。

 

私たちは「価値のない人間」になり、世界から否定されるのが怖い。だから、誹謗中傷というのは自分で自分を「価値のない人間だ」と認めないためにどうしてもやらざるを得なくなってしまう。

 

自分で自分を価値のない人間だと認めてしまったら、これまで自分が価値のない人間を否定してきた分、自分が否定されているように感じてしまうことになり、こんな価値のない自分はこの世から消えた方がいいと思ってしまう。だから、人を否定することによって自分を肯定し、生き延びようとする。誹謗中傷する側というのも苦しんでおり、必死なのだ。

 

でも、その苦しみというのはどこからやってくるのかというと、自分の思想だ。

そもそもその苦しみの根源は、自分で勝手に世界を2つに分け、その勝手な基準で「価値のない人間」になった人に対しては、冷酷かつ否定的であってもいいという自分の思想にある。

 

そうであるならば、「価値のない人間」を否定しない思想、「価値のない人間」を排斥しない思想、「価値のない人間」は「価値のない人間」として楽勝でこの世に存在していてもいいという思想に自分の思想を変えていくことができれば、「価値のない自分(の部分)」を受容し、肯定することができ、その分、他人を傷つけようとして自分の心を傷つけずに済む。

 

ということがわかっていても、どうしようもなく否定的な感情が出てきてしまう。

 

だからまずは、相手を傷つけようとしている自分に気づくことが大切だろう。今自分はカミソリを取り出して自分の手首に当てようとしていることに気づくこと。手首を切り刻んでまでも相手を傷つけるメリットはガチのムチであるかしらん。ましてや相手が目の前にいない場合、自分の手首は確実に傷つくが、相手は何の傷もつかない。全然割に合わへんどす、ということに次第に気がついてくると思うどす。

 

自分が今「価値がない」と定義しているもの。その存在を肯定できない限り、苦しみは続く。そういう「価値のない部分や側面」は他人にもあるし、間違いなく自分にも確実にあるからな。そういう部分を肯定できなかったら、「そういう部分を肯定できない自分」に気づき、否定してしまう自分どすなー、自分で自分の苦しみを生んでしまう自分どすなー、とそういう自分を受け入れる。

 

よし、なんかまとまらねぇわ。

 

以上です。