おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

『AI vs.教科書が読めない子どもたち』を読んで思ったこと

先日、知人の紹介で新井紀子さんの『AI vs.教科書が読めない子どもたち』という本を読んだ。

 

同書にはAIの限界と人間にしかできないことが書かれてある。

 

海外で採点にAIが活用されているという小論文には正解はありません。どのように採点しているかと言えば、AIに「良い論文」を学習させ、採点する論文と比較して採点しています。採点基準は内容とは関係なく、「どんな語彙をどれくらい使っているか」「一文の長さはどのくらいか」「どんな接続詞を使って書いているか」といった、外形的で数値化しやすい要素を基準にします。つまり統計です。

 

要約すると、AIは内容ではなく、外形的で数値化しやすい要素を採点基準にする、ということだ。

 

AIは意味が理解できないが、人間は意味を読み取り、意味を理解することができる。

 

AIは意味を理解できないため、文章を処理するために膨大なデータを必要とする。

その膨大なデータのおかげで、AIは、論理、確率、統計の領域では力を発揮するが、意味は理解できない。文章をうまく処理したように見えても、それは膨大なデータに基づく論理や確率や統計によって処理されており、文章から意味を読み取った上で処理しているわけではない。

 

つまり、AIは意味を理解できない暗記型の機械装置ということだ。

 

そして、意味を読み取る能力が不足している人も同様に、AIと同じように暗記に頼ることになる。

 

暗記型か意味型か、AI型か人間型か、この違いは文章だけにとどまらず、日々の物事の見方にも大きく影響すると思う。

 

もう一度整理しよう。

 

「外形的で数値化しやすい要素」だけで何かを判断するのはAI、意味を読み取った上で判断するのが人間。

 

そしてたとえ人間であったとしても、意味を読み取る能力が不足している人は、AIと同じように「外形的で数値化しやすい要素」だけに頼ることになる。

 

例えば、これから付き合っていく相手を選ぶ時に、相手の「外形的で数値化しやすい要素」、つまり機械にも処理がしやすい要素、データに落とし込みやすい要素をもとに相手を見るのか、相手から意味を読み取った上で相手を見るのかで大きな違いが出てくる。

 

ここに年収1000万円の人がいたとすると、機械はその人を「年収1000万円の人」としか認識できない。「年収800〜1000万円=理想の相手」とプログラミングされていれば、その人のことを理想の相手であると判断する。

 

そして、読解力が不足していて意味を読み取ることが苦手な人も、「年収1000万円」から「高年収だから経済的に余裕がある暮らしができるから良いじゃんけ」以外の意味を読み取ることができない。

 

一方で意味を読み取ることができれば、「年収1000万円ということはどういう人なのか」に着目する。

 

その年収1000万円は、真面目に働いて得たものなのか、人を騙して得たものなのか、真面目に働くといっても、それが休日も返上して働いた結果なのであれば、身近な人よりも仕事やお金を優先する人かもしれないし、良好な人間関係の結果得たものであれば人を大切にする人かもしれない、というように、読解力があれば「年収1000万円」という表層にとどまることなく、その内面に着目することができる。

 

仏教も同様に、数値化しやすい外面的なものよりも、誤魔化しのきかない内面を重視する。仏教もデータではなく意味を重視する。

 

そして仏教はさらに踏み込んで、自分が何かから読み取った意味は、「それはあくまでも自分のただの思い込みであり、相手が実際に本当にそうであるかはわからない。だから自分のその思い込みを正しいものとして、相手を責めたりしないほうがいい。」と説く。

さらに踏みこんで、「んじゃあ、なんで私はそのように思い込んでしまっているのか? なぜそのようなとらえ方をしてしまうのか? なぜそのような解釈をしてしまうのか? その原因は相手にではなく、自分に求めていっちゃいないよ、ベイビー」と説く。

 

読解力がないと、意味を読み取れない。

意味を読み取れないと、表層的なものでしか物事を判断できない。

そして、読み取った意味は必ずしも正しいわけではなく、それはあくまでも自分の思い込みでしかない。

 

読解力、つまり文章から意味を読み取る能力は、人や自分からも意味を読み取る能力につながり、それは仏教にも通じる、みたいな感じのニュアンス的なことを思った。