先日、エリヤフ・ゴールドラットさんの『ザ・チョイス』という本を読んだ(写真は撮り忘れた)。
本書から学んだことは、以下のとおり、主に2点。
① 不都合な現実に直面した時、他人のせいにするのではなく、その現実から今後に活かせる因果関係を導き出すほうが有意義である。
② 妥当な原因は、一つの結果だけではなく、複数の結果を生み出す。
一つ一つ整理して、私のすっからかんな脳髄の中に落とし込んでいこう。
①不都合な現実に直面した時、他人のせいにするのではなく、その現実から今後に活かせる因果関係を導き出すほうが有意義であること。
例えば、ある製品の納期が遅れてしまったとする。これは都合の悪い現実だ。
その時に我々は、納期が遅れたのはあいつのせいだ、こいつのせいだ、と人のせいにしてしまい、それで良しとしてしまう。
あいつが改善すれば問題は起きない、こいつが心を改めれば解決すると思い込んでしまい、本当の因果関係を探そうとしない。
納期が遅れてしまった原因は、非効率な工程にあるかもしれないし、想定時間の計算が間違っていたのかもしれないし、これまでのやり方で全て通用するという前提に立っていたことにあるかもしれない。
この考えは仏教にも通じる。
我々は何らかの苦しみを感じた時、この苦しみはあいつのせいだ、こいつのせいだと、相手に原因を求め、相手を責め立てる。
だがしかーし、仏教から言わせると、自分の苦しみの原因は自分にある。
その原因というのは、執着。我への執着だ。
我というのは「私は〇〇な人間である」という自分が自分に対して抱いている固定不変なイメージ、他人からこう見られたいというイメージだ。
例えばここに「私は正しい人間だ」と強く信じている凡夫Aがいたとする。
凡夫Aは、言うまでもなく「自分は正しい人間だ」と思っているし、他人からも「自分は正しい人間である」と見られたいと思っている。
そこへ、凡夫Bがやってきて、「なぁ凡夫Aよ、君のそのやり方より、このやり方のほうがいいんじゃないか?」と提案してきたとする。
その時、Aの「自分は正しい人間だ」というイメージが崩れることになるのだけれど、ここで重要なのは、Aの苦しみは、Aが「自分は正しい人間だ」というイメージに執着しているからこそ生じたのであって、Bが直接その苦しみをもたらしたわけではないということでごわす。
そもそも「自分は正しい人間」というイメージに執着していなければ、AはBの提案に対し「確かにそうどすなー」と京都風に悠然と回答することができるだろう。
Bはただのトリガー、すなわち縁でしかなく、Aに執着という因がなければ、因縁和合して苦しみという結果はもたらされなかった。執着という因がなければ、どんな縁がやって来ようとAに苦しみが生じることはないのである。
しかし悲しいかな、Aはその因果関係を捉えることができず、「Bがあんなことを言わなければ生じなかった、この苦しみは全部Bのせいだ、なめとったらあかへんど」と怒鳴り、喚き、責め立てるのである。
こうしてAは、「正しい自分」というイメージを意図してか意図せずか崩してくるBのような相手と接する度に、苦しみを味わい、その度毎に相手を責め立てるので、ついには人はAに寄り付かなくなる。
孤独になったAは、自分の苦しみの原因を社会に求め始める、世界に求め始める、宇宙に求め始める。悪霊に求め始める。神に求め始める。とにかく自分ではない何者かに求め続ける。きりがないぽよ。
ゴータマ先輩はそのことをばりばりにわかっているから、我への執着から離れちゃいなよベイビーと説いているわけだ。自分に我執という因がなければ、どんな縁がやってきてもしゃーら〜♪へっちゃら〜♪だからだ。
不都合な現実の原因であろうと自分の苦しみの原因であろうと、人のせいにするのは簡単だし、確かに実際、一瞬間は楽になる。ばりばりの凡夫である私もついやってしまう。
だけどそれは本当の原因を突き止めて、その原因と向き合って、その原因に取り組んでいるわけではないから、また同じようなことが起きてしまう。
人のせいにして人を責めても何にもなれへん。
関西人でもないのになぜか関西弁になってしまったが、とにかくそのことは肝に命じておこう。
② 妥当な原因は、一つの結果だけではなく、複数の結果を生み出す。
ある問題に直面し、その原因を見つけ出したと思っても、その原因が妥当なものでなければ、どれだけネバギバの精神で取り組んだところで、その問題は解決しない。
上の例で言えば、どれだけ他人のせいにし続けたところで、より確からしい原因である非効率な工程が見直されない限り、納期には遅れ続けるし、どれだけ周囲の人間を責め立てたところで、より確からしい原因である我への執着(仏教では本当の原因だ)を減らさなない限り、苦しみが減ることはない。
んじゃあ、その原因が確からしい原因かどうか、妥当な原因かどうかはどのように判断すればいいのか。
それは、確からしいと見当をつけている原因が複数の結果を生み出しているかどうかだ。
例えば、製品Aの売れ行きが減速した原因は、顧客の好みが変わったからだと考えたとする。
顧客の好みが変わったことが原因なのであれば、製品Aの代わりに、機能的には同じだけれどデザインの大きく異なる製品Bが、製品Aの売上量が減った分だけ売れているということになる。
その事実が確かめられたのであれば、複数の結果を確認できたのでその分、その原因の妥当性は高くなる。
しかし、類似品の製品Bも売れていないし、製品Cも売れていないし、製品Dも売れていないということになれば、複数の結果が確認できていないので、「客の好みが変わったから」という理由は妥当性がまだ低いということになる。
凡夫Aの場合、自分の苦しみの本当の原因は凡夫Bだとする。
Bが原因だとすると、Bによって苦しみを感じている人が周囲に多くいるはずだ。そして、Bからもたらされるような苦しみは、それ以外の人からはもたらされない。Bがいなくなれば今後同様の苦しみは味わうことがないということになる。
でも実際はどうだろうか。
自分のように苦しんでいる人は周囲に見当たらない。
部署や職場を変えたとしても、そこには以前と同じような苦しみをもたらしてくると思われる人が必ずいる。
凡夫Bが本当の原因であれば生じるであろう複数の結果というものが確認できないのだから、凡夫Bが原因というのは無理があるということになる。
しかし、原因が凡夫Aの我執だとするとどうだろうか。
我執がない、あるいは少ないということは、凡夫Aは「自分は正しい人間」と思われようが思われまいがまじでどうでもいいと思っている。
すると、凡夫Bのような相手を目の前にしても、自分の正しさを否定してくるいけ好かない奴と断罪することはなく、むしろ良き助言者と思える。
相手の話にしっかりと耳を傾け、建設的な話ができ、以前のような苦しみは感じなくなる。
職場が変わっても、苦しみは減ったままだ。
このような結果を確認することができれば、苦しみの原因は我執であるということが妥当性を帯びてくる。
我執が苦しみの本当の原因であるということの妥当性は、自分がまずやってみて確認するしかないが、都合の悪い人を責めて、その人を排除しても、また同様の苦しみがやってくるということは経験からわかるはずなので、自分の苦しみの原因を他人に求めることは因果関係として心もとない、というか成り立たないということは少なくともわかるはずだ。
よし、何となく自分なりに整理ができた。
以上を踏まえて、これから何か不都合なことが起こったら、その原因は他人ではない何かに求めていく、そして、原因の妥当性はその原因から生じるであろう複数の結果から判断していく、この二つは怠らずにやっていこうと思う。
同様に仏教的な心がけとして、自分に何らかの苦しみが生じたら、その原因は他人ではなく、自分が執着している自分のイメージに求めていく、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の塩梅っぽいスタイル風のことも肝に銘じていこう。