おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

日常は実はノンゼロサム

妬み屋であるというのは、絶対的に多額の金を胴元からせしめることよりも、相手のプレイヤーよりも多くの金額を得ようと努力することを意味する。妬み屋ではないということは、たとえ相手のプレイヤーがあなたと同じだけの金を得たとしても、それによって二人ともがより多くの金額を胴元から得ることができるかぎりまったく満足するという意味だ。

 

ほとんどすべてのプレイヤーが妬みの誘惑に屈し、そのため相対的にとぼしい金額しか得ることができない。多くの人々は、おそらくそういう可能性を考えることすらせずに、相手のプレイヤーと協力して胴元をやっつけることよりもむしろ相手プレイヤーをやっつけようとする。

 

事実の問題として、実生活の多くの側面はノンゼロサム・ゲームに対応するものである。自然がしばしば「胴元」の役割を果たし、したがって個々人(あるいは各個体)は、おたがいの成功から利益を得ることができる。自分が利益を得るために必ずしもライバルを倒す必要はないのだ。利己的遺伝子の基本法則から逸脱することなく、基本的に利己的な世界においてさえ、協力や相互扶助がいかにして栄えうるのかを、われわれは理解することができる。

 

リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子

 

目の前の相手と気持ちよく協力することができればそれなりの利益を安定的に享受することができるのに、私たちは目の前の相手をしばしば敵とみなして、相手に勝つことばかりに注力してしまう。相手よりも多くの利益を得ることばかりを考えてしまう。相手が自分よりも多くの利益を得たら、相手のことを妬んでしまう。

 

その結果、協力していれば得られていた利益よりも少ない利益しか得ることができなくなってしまう、あるいは双方にとってマイナスの結果になってしまう。

 

協力関係が成り立たない枠組みをゼロサム・ゲーム(どちらかが勝てばどちらかが負けるサッカーの試合のようなもの。両チームが協力してしまうと興行として成り立たない)、協力関係が成り立つ枠組みをノンゼロサム・ゲーム(良好な夫婦関係のようなもの)という。

 

実生活のほとんどは実は相手に勝つ必要のないノンゼロサム・ゲームで、いかに相手と協力関係を築くことができるかしらん、ということを考えていったほうが有意義だし、長期的には自分の利益にかなうはずなのに、私たちにはどうしてもそれが簡単にはできない。

 

その代わりに、どちらが正しいのか、どちらが有能なのか、どちらが上の立場なのか、どちらがより多く得ることができるのか、そういうことばかりを問題にしてしまう。

 

どうしてなのか。

 

それは、私たちが自分の価値を証明することに必死だからだ。

 

私たちは根本に「寂しさ」を抱えていて、自分の存在を誰かに認めてほしいと思っている、自分のことを見て欲しいと思っている、大事にしてもらいたいと思っている、気にかけて欲しいと思っている。

 

そして、自分の価値を証明すれば、他人の方から自分に近づいてきてくれて、自分の存在を認めてくれる、見てくれる、大事にしてくれる、気にかけてくれると思っている。

 

だから、わたしたちは自分がいかに価値のある人間なのかを示すことに必死だ。言い換えると、人から「価値のない人間」と思われないようにすることに必死だ。

 

価値のない人間とみなされると、人は離れていく。そして自分の存在を認めてくれなくなる。自分の相手をしてくれなくなる。自分のことを見てくれなくなる。自分のことを大事にしてくれなくなる。自分のことを気にかけてくれなくなる。そう思ってしまうと怖くなる。

 

(そしてこの恐怖は他人が作り出しているのではなく、価値のある人間のことしか存在を認めない自分、価値のある人間のことしか気にかけようとしない自分、価値のない人間は存在してはいけないと思っている自分、価値のない人間はどうなってもいいと思っている自分、そういう自分自身の冷淡な発想から生まれているのだけれど、そのことについてはここでは割愛するっつたい)

 

その恐怖、そして根本的な寂しさから私たちは自分がいかに価値のある人間なのかをアッピールする。

 

協力できる機会があったら、その機会を利用して相手を打ち負かし、自分の正しさや有能さをアッピールしたほうがええじゃまいか、相手と対等なんてありえない、おいどんのほうが上じゃまいか、とボブマーリー風に思ってしまうのだろう。

 

誰かのために動くことは下の人間、自分よりも価値のない人間がやることだと思っているのだろう。自分は動かず人に動いてもらうことで自分が上であるということ、自分に価値があることの証明であるかのように思っているのだろう。

 

だから人のために動くことができない。協力関係を築こうと思うことができない。

 

物事の全てをゼロサム・ゲームとしてしか捉えることができない思考。全てを勝ち負けで捉えてしまう思考。全てを上下で捉えてしまう思考。いわゆるマッチョ思想。

 

筋トレは大事だが、そういう思考パッターンからは離れていきたい。もちろん日々の中には勝ち負けの領域もあるし、上下の領域もあるが、それらはスポーツや仕事など、ある種のゲーム内の枠組みでしかない。

 

目の前の現実をゼロサム・ゲームではなく、ノンゼロサム・ゲームとして捉え直し、勝ち負けや上下の枠組みから離れて、相手と協力してお互いに安定的な利益を享受できるような関係を築いていくことはできないかしらん、そのような可能性は本当にないのかしらん、と一旦冷静になって、快活クラブでゆっくりと考えてみるといいかもしれない。

 

声出して切り替えていこう。