おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

重要感を求めて生きている

デール・カーネギーの『人を動かす』という本に以下のような記述があった。

 

現実の世界では満たされない自己の重要感を得るために、狂人になる人が大勢いることは確かだ

 

自己の重要感を渇望するあまりに、狂気の世界にまではいって、それを満たそうというものも、世の中にはいるのだ。

 

人間は、だれでも周囲のものに認めてもらいたいと願っている。自分の真価を認めてほしいのだ。小さいながらも、自分の世界では自分が重要な存在だと感じたいのだ。

 

自分は重要な存在なのだと思うように仕むけてくれる人がだれかいたら、おそらく大勢の人の人生が変わるのではないかと思われる。

 

私たちは自分は重要な存在である、価値のある存在であるということを証明しようとして日々ネバギバの精神で頑張っている。

 

そして、世界に対する自分の重要性を示すために色んなものをかき集めようとしている。

 

地位、財産、名声、名誉、賞、資格、健康、知識、正義、良識、美貌、才能、能力、権力、知性、教養など。

 

あなたはこんなに価値のあるものを持っている、だからあなたは価値のある存在だ。

あなたはこんなに価値のあることを知っている、だからあなたは価値のある存在だ。

あなたはこんなに価値のあることを行える、だからあなたは重要な存在だ。

 

こんな風に自分の存在が認められることを渇望している。

 

裏を返せば、価値あるものを持っていない人、価値あることを知らない人、価値あることを行わない人は、重要な存在だとは見なされないと思っている。むしろそういう人間はいてはいけない人間と思われるのではないかと思っている。

 

価値がなければ誰からも相手にされない、人から見捨てられる、そういう不安や恐怖を抱えているからこそ、何か価値あるものを手に入れたり、価値があると思われる行いをすることに躍起になる。

 

ではどうして価値がなければ自分は相手にしてもらえない、人から見捨てられると思ってしまうのかというと、自分自身が価値のない人を無視していて、価値のない人を見捨てているからだ。

 

自分なりの基準で価値のある人と価値のない人という線引をし、相手が価値のない人に該当すると、その人を粗末に扱い、その人を切り捨てているからだ。

 

自分が見捨てているから、見捨てられるように感じる。見捨てられているように感じる。

 

例えば、人を裁く基準が「年収1000万円以上かどうか」というものだとすると、その人にとって、年収1000万円未満の人は価値のない存在となり、価値のない人間は粗末に扱ってもいいという考えに則り、その人は相手を無視する。切り捨てる。見たとしても表層的な年収しか見ない。

 

人を裁く基準は自分にも適用されるので、自分が年収1000万円以上で、自分自身のことを価値のある人間だと思えている間はまだ良いかも知れないが、価値のない人間に対する冷淡さが強い分、自分が年収1000万円未満なり、自分が価値のない人間になることが怖くなる。

 

そのため、より多くのお金をかき集めて絶対に年収が1000万円未満にならないように強迫的な努力をする。しかしながら、どんなに努力をしたところで臨終の際はすべてを失うことになるので、一気に価値のない人間となり、これまで自分が起こしてきた価値のない人間に対する冷淡な気持ちが全て自分に返ってきて苦しむことになる。

 

仮に自分の年収が1000万円未満になってしまった場合は自己否定に陥り、こんな自分には価値がない、こんな自分は粗末に扱ってもいいとなり、自分の日常生活や身近な人間関係を蔑ろしてしまい、陰鬱で破滅的な日々を送ることになってしまう。

 

上の例は、わかりやすく年収にしたが、私たちは何かに基づいて人を価値のある人間と価値のない人間に分ける。そして、価値がない人間に該当する人に対して冷淡な気持ちを起こしてしまう。その冷淡な気持ちは必ず自分に返ってくるし、それが苦しみを引き起こす。苦しみの原因は他人ではなく、自分が日々起こしている思いにある。

 

私たちは常に、自分は価値のあるものを持っているかどうかを問題にしているが、そんな中で、価値のあるなしに関係なく、自分は重要な存在だと思わせてくれる人がいたら、こんなにありがたいことはないだろう。

 

価値というのは自分自身が勝手に決めていたり、世間の不特定多数の人間が漠然と決めているもので、そのような心もとない価値基準で人や自分を裁いててんやわんやしている中で、自分が普段価値を見出していないもの(平凡過ぎて価値を見いだせずにいたもの)に価値を見出して、存在を肯定してくれる人の存在はありがたい。

 

年収1000万以上でないと自分や人を肯定できない人(自分や人の存在を認められない人)と、瞬きしているだけで自分や意図を肯定できる人(自分や人の存在を認められる人)では、どちらが近くにいて気持ちが良いだろうか。

 

前者の近くにいると、あら探しをされたり否定されたりして不安になることが多くなる。

後者の近くにいると、些細なことでも褒めてもらったり認めてもらったりして安心しやすくなる。

 

人を認めるハードルを高くして、知らず知らずの内に周囲の人を裁き、自分を苦しめる羽目になっていないか要注意である。

 

理想としては、至極平凡なことで自分や人を肯定できるようになれば(重要感を見い出せるようになれば)、すごく楽だ。そうなれるように少しずつ心がけていきたいどす。