おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

最新、職場で学んだこと

先日、職場の同僚2人の議論というか一方的な言いがかりの場に遭遇することがあったのだけれど、色々と勉強になった。

 

AさんはとにかくBさんのことが気に食わない。

だからAさんはBさんを一方的に貶め、責め立てようとしていた。

 

私はこんなにちゃんとしているのに、Bさんはやっていない。

私はこんなに大変なのに、Bさんはそれをわかってくれない。

私はこんなに頑張っているのに、Bは手を抜いている。

私の仕事のやり方は正しい、でもBさんのやり方は間違っている、おかしい。

私は仕事の要点や良識をきちんとわきまえている、でもBさんはわきまえていない。

私は被害者、Bさんは加害者、ひどい、ぴえん。

 

以上のようなことが、手を変え品を変え、延々と捲し立てられた。

 

「頑張っているあちし」、「賢いあちし」、「正しいあちし」、「善良なあちし」、そういう自分のイメージをアッピールしたい気持ちはわかるのだけれど、AさんはBさんを否定することによって、できるところに立とうとしていた。自分にとって都合のいい立場に赴こうとしていた。自分がそう思い込みたい自分を感じようとしていた。

 

賢くなろうとすること、正しくあろうとすること、善良であろうとすること、その事自体は良いことだし、大事なことなのだから、それに向けてただただ努力していけばいいのだけれど、わたしたちはついつい怠けてしまい、他人を見下したり否定したりすることによって、「できる自分」、「優秀な自分」、「ちゃんとしている自分」を感じて気持ち良くなってしまう。

 

実際に賢くなるために努力するよりも、周囲の人間を馬鹿にしたほうが手っ取り早いからな。

 

Aさんを通じて、自分にも同じような側面があるなー、としみじみと感じたな。反省しなくてはならない。

 

そして、Aさんの様子を見ていると、Aさんは苦しい世界の中に生きていることがありありとわかった。

 

例えば、BさんからAさんへの何気ない相談のメールに対して、Aさんは自分が仲間外れにされていると感じてしまう。その相談メールは私にも共有されていて、ネバギバの精神で頑張ってみたのだけれど、私にはそこからBさんがAさんを仲間外れにするような要素を読み取ることができなかった。

 

もちろんBさんも、Aさんを仲間外れにするつもりはさらさらない、だから相談メールを送っているジャマイカ、とボブ・マーリー風に応答するのだけれど、Bさんは自分は仲間外れにされていると思い込み、聞く耳を持たない。

 

Bさんに悪意はないし、万が一Bさんに悪意があったとしても、それはBさんの内面のことなのでAさんには絶対にわからない領域のことだし、第三者から見てもそのメールから悪意は読み取れないにも関わらず、Aさんにはその相談メールは悪意のあるメールに見えてしまう。

 

ここでポイントなのは、Aさんにはそのメールが苦しみをもたらすものとして見えているというのは厳然たる事実ということだ。

 

同じ1通のメールでもAさんとBさんと私にはそれぞれ違ったように見える。

同じ物事でも人によって捉え方が異なる。

 

なぜか。

 

ゴータマ・シッダールタ先輩によると、それは一人ひとりが違う世界を生きているからだ。

言い換えると、一人ひとりが違うフィルターを通して世界を見ているからで、そのフィルターの中が自分の世界と言える。そのフィルターというのはいわゆる自分の心というもので、日頃からどのような思いを起こしているのかによって、そのフィルターの種類は変わってくる。

 

日頃から赤い色の思いを起こしていると、自分のフィルター内=自分の世界は赤みを帯び、自分の世界を通して見える外の物事も赤みを帯びて見えるようになる。

 

Aさんは、日頃から「自分に都合の悪い人は排除する」という冷淡な思いを起こしていた。すると、Aさんのフィルター内=Aさんの世界はその種の冷淡な思いで満ちていき、その冷淡なフィルターを通じて物事を見ることになるために、物事が自分に対して冷淡に見えてしまう。

 

言い換えれば、自分が人を排除するような思いを起こしているから、人から排除されているように感じやすくなる。

 

Aさんは日頃の自分の冷淡な思いのせいで物事が冷淡に見えて苦しんでいるにも関わらず、それがわからない。この苦しみはBさんのせいだと思い、Bさんをもっと責めるようになる。

 

そしてもっと冷淡な思いを起こし、さらにはBさんが苦しんでいなくなれば私の問題は全て解決するとさえ思い始めるかもしれない。

 

するとますます自分のフィルター内=自分の世界は苦しみを生じさせやすい状態になっていき、そうして苦しみを感じる度毎に人のせいにして、冷淡な思いを起こし、自分の世界を冷たくし、苦しみを感じやすくなり、人のせいにし、という無限ループにはまり込む。

 

これは皮肉でもなんでもなく、Aさんはまじで苦しんでいると思う。苦しい世界の中で生きていると思う。可哀想だと思う。(実際に血圧は190を超えているという)

 

苦しみの原因は自分が日頃から冷淡な思いを起こしていることにあると伝えたいのだけれど、Aさんは自分自身のことを「善良な人間だぽよ」とかんかんに信じ込み、「善良な人間」でないといけないと思っている節があるので、あなたが日頃から人を排除する思いが強いから自分が排除されているように感じやすくなっているんジャマイカ、とボブ・マーリー風に伝えることは極めて困難で、言おうものなら、ヒステリーを起こし、血圧は300を超えてしまうだろう。

 

私たちは何らかの苦しみを感じた時、どうされたと感じて苦しんでいるのかを考える必要がある。

 

例えば、見下されたと感じて苦しんでいるのであれば、それは自分が日頃から見下すような思いを起こしているということになる。それは言い換えると、自分の醜い側面を見ることでもある。そこで大切なのは、いやー、自分にも醜いところがあるなー、と自己否定することなくその事実を受け入れていくことだし、見下すと追々自分が苦しみやすくなるから見下すことをやめていくこと、人をどんどん認めていくことに心がけていくことだ。

 

と、わかってはいてもそうはできない自分がいるのだけれど、そういうわかっていてもできない自分の側面も自己否定せずに受け入れていくように心がけていく。

 

連鎖的にどうしようもない自分が見えた時も最終的には受け入れるという形でソフトランディングさせていく。

 

みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のスタイルっぽい方向性らしいスタンス風の塩梅くらいのベクトルチックなことを学びました。

 

うまくまとまらないのでここで終わります。

 

以上。