おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

大事だから整え続ける

私は日常生活において整え続けることを心がけているのだけれど、この種の生活は結構おすすめだ。

 

そもそもなぜ整える必要があるのかというと、その根本は自分が大事だからだ。

 

大事な自分を大事にするために整え続ける。自分は大事な存在である、自分を最終的に大事にできるのは自分しかいないから、整え続ける。

 

何もしなくても整った状態が続くのであれば整え続ける必要はないのだけれど、幸か不幸か、諸行無常の理によって整った状態というのが続くことはなく、放っておくと必ず物事は乱れてくる。当然、自分も自分の周囲のものも乱れてくる。乱れることは仕方がない。乱れたら整えればいいだけだ。

 

自分は大事な存在である、自分というのは自分が大事にしていくべき存在であるという前提に立てば、大事な自分を大事にするためにやるべきことは自ずと見えてくる。

 

自分を大事にするために十分で良質な睡眠をとる必要がある。

自分を大事にするために十分で良質な食事をとる必要がある。

自分を大事にするために適度な運動を行う必要がある。

自分を大事にするために読書や勉強をする必要がある。

自分を大事にするために良好な人間関係を築く必要がある。

自分を大事にするために家計を整える必要がある。

自分を大事にするために炊事・洗濯・掃除をする必要がある。

自分を大事にするために歯を磨く必要がある。

自分を大事にするために入浴する必要がある。

自分を大事にするために身だしなみを整える必要がある。

自分を大事にするためにお金をある程度稼ぐ必要がある(働く必要がある)。

自分を大事にするために買ったものはきちんと使ってあげる必要がある。

自分を大事にするために使っていないものは手放す必要がある。

などなど

 

全ては「自分のために自分自身や周囲の物事を整えること」に集約される。

全ては「自分を大事にすること」に集約される。

 

ここで忘れてはならないことは、自分を大事にするためという名目のもとに、他人を軽く扱ったり、他人を蔑ろにしたり、他人を傷つけてもいいと思ったりすると、それは自分を大事にするということには決してならないということだ。

 

他人に対して冷淡な思いを起こしたり、冷淡な扱いをしたりすると、当然ながら良好な人間関係は作れない。人間関係が作られたとしても、それは冷淡な人間関係であり、その中で安心感を得ることは極めて難しい。大事な自分のために冷淡な人間関係を用意するというのは筋が通らない。

 

また、私たちは自分の心を通じて物事を捉えている。つまり、私たちは他人を直接見ているようで実はそうではなく、他人と自分の間には自分の心のフィルターが必ず一枚かんでいるみたいな感じのニュアンス的な雰囲気だ。そのような構造において、例えば自分が相手に対して相手をめった刺しにするような思いを起こすとすると、それは自分で自分をめった刺しにしているようなものなのである。

 

実際に相手をめった刺しにすると自分の心も傷つくと同時に当然相手も傷つくが、現実世界においてはやらないからと言って、心の中で悶々と相手をめった刺しにすると、当然相手は何のダメージも受けない一方で、それはただただ自分の心を傷つけていることになる。これは割に合わないので、どうせやるなら実行に移せ、と言いたいわけでは決してなく、自分を大事にするために相手を傷つけてもいい、相手を苦しめてもいいということにはならない。

 

私たちは自分の心を通して物事を捉えている以上、自分を大事にするためには、冷淡な思いを起こすという選択肢はないのであーる。

 

と、わかっていても冷淡な思いを起こしてしまうのが我々人間凡夫であり、その時は、自分の冷淡な思いに気づき、ついつい冷淡な思いを起こしてしまう自分だなー、と自分の冷淡な部分を正当化することなく受け入れていくしかない。

 

逆に、自分や他人に対して温かい気持ち、寛容な気持ちを起こせるようになると、自分にとって世界は寛容に感じられるようになる。よって、自分を大事にするために何事にも温かい気持ちでいることを心がけることはとても大事になってくる。

 

そう心がけていても、やはり冷淡な思いを起こしてしまうこともあるかもしれないが、その時は正当化せずに、冷淡な気持ちを起こしてしまう自分だなー、と自分のそういう側面をありのままに寛容に受け入れていくしかない。

 

話が逸れてきたので話をもとに戻すと、物事を整えていくのは自分が大事だからで、大事な自分を最終的に大事にできるのは自分以外にいないからだ。

 

こう聞くとナルシストに聞こえるかもしれないが、ナルシストというのは自分のきれいな側面しか自分であると認めようとしないし、その分、自分の醜い部分から目をそらしたり否定したりしている。また自分のきれいな側面を根拠に自分が一番だと思い込み、他人を見下しており、そのきれいな側面をもって他人が自分を大事にするために動いてくれることを当然だと思っている。そんな感じのニュアンス的な雰囲気の人だ。ナルシストはナルシストで苦しんでいると思うのだけれど、詳細は割愛する。

 

しかしながら、整っているからと言って自分を大事にしているのかというと必ずしもそうではないかもしれない。

 

ここにAさんとBさんがいて、どちらも筋トレに励んでいて体は引き締まっている。

 

Aさんが筋トレに励む目的は、体を動かして体を大事にするためで、つまりは自分を大事にすることが目的になっている。

 

Bさんが筋トレに励む目的は、他人から馬鹿にされないような引き締まった体を手に入れ、そして他人を見下すためで、つまりは他人を蔑ろする=自分を蔑ろにすることが目的になっている。

 

現段階の見た目という観点では、両者に違いはないが、その結果に至るまでの心がけは大きく異なり、その心がけは長期的には大きな違いを生むことになる。

 

Aさんにとって、どんな状況にあっても自分の体を大事にし続けることの大切さは変わらないので、生きている限り、体を大事にするために筋トレをし続けることができる。そうしてきちんと使ってケアしてあげているからこそ、その体は長期的に健康であり続けることができる。Aさんにとっては自分が他人よりも筋肉ムキムキかどうかはあまり重要ではなく、自分が体をきちんと大事にできているかどうかが重要なので、そこに他人と比較して得られる優越感や劣等感というものはない。よって、精神衛生上も健康である。

 

一方、Bさんの場合は、優越感を感じることが目的になっているため、自分よりも筋肉が鍛えられている人を見ると、優越感を求めている分だけ相手から見下されているように感じてしまう。ある種の息苦しさを覚える。おそらく当面の間は劣等感をエネルギーに、絶対に負けへんどー、とネバギバの精神で頑張ることもできるかもしれない。その結果、筋肉がつき、一時的には優越感を感じることができいい気分に浸ることができるかもしれない。

 

そのまま筋肉がつき続ければいいが、筋肉がつく量には限界があるだろうし、その限界を超えて筋肉をつけるためにはステロイドに頼る必要もあるだろうし、筋肉が衰えてくることが恐怖になってくるし、そして何よりも、どんなに筋肉を付けたところで、諸行無常の理によってその筋肉は必ず衰え、最終的には失われてしまう。

優越感を感じられる時期もあるだろうけれど、体が引き締まっている自分しか肯定できない思考パッターンに陥り続けていると、諸行無常の理によって、いつかは劣等感や不安や恐怖に苛まれることになり、そういうネガティブな感情を避けるために、運動なんてしても意味がない、優越感が得られないのであれば意味がないとして、運動自体をきっぱりやめてしまうかもしれない。

 

あることをやる時に、その目的が自分を大事にすることを目的にしているのか、あるいは優越感を得ることを目的にしているのかで、継続性や精神衛生、その他の点においてに大きな違いが生まれてくる、ということを言いたかったのだけれど、うまくまとまりそうにないので、ここで終わります。

 

以上です。