先日、職場の新年会があったのだけれど、近くに座った人の中にずっと自分の話をしつづける人Aさんがいて、実際心底疲れた。
ずっと自分の話をし続けるタイプの人にはこれまで何度か遭遇したことがあるが、私の印象だと、50代以降の男性に多い。
彼らは本当に周りが見えなくなってしまう。
昨日の新年会では、1つのテーブルに6人座っていて、Aさん以外の5名は口をつぐみ、ある人は無表情のままテーブルの一点を見つめ、ある人はなんとか相槌を打ち、ある人はスマートフォンをいじり、ある人は肘をついて眠たそうにしていた。
この流れを断ち切るべく、私は別の人に話を振ってみたりしたのだけれど、結局は話題を奪われてAさんが延々と語り始めることになってしまう。
彼ら(オタク)と実際に話してみると、本当に驚くのだが、彼らは”自分”と”自分の周囲”と”自分の育った世界”にしか関心がなく、自分に関心があることは他の人もみんな関心を持っていると思い込んでいる。
保坂和志『人生を感じる時間』
自分の話をし続ける人にはある種の共通点があって、それは自分にしか興味がない、他人には興味がないということだ。
本当に自分のことしか見えていない。
自分が今話していることに他人が興味を持っているのかどうか見えない。
むしろ自分が興味のあることには他人も興味をもっていると確信しているふしすらある。
他人が見えていないので他人に質問することがない。
質問することがあったとしても、それは他人のことを知ろうとするための質問ではなく、自分が話したいことを話すための質問に過ぎない。
思うに彼らも若い時分は、自分の話をし続ける人に必ず遭遇し、うんざりした思いがあるはずなのだけれど、今となっては自分が自分の話をし続ける人になってしまっている(まぁ、本人は気づいていないだろうけれど)。
そして私自身も諸行無常の理によって老いさらばえていくにしたがって自分の話をし続け、周りのことが見えなくなり、気が付かないまま周囲をうんざりさせてしまうことになるのだろうか。
それは避けたいぜベイビー。
どうして私たちは周りが見えないほどに自分の話をし続けてしまうのだろうか。
それはとてつもなく寂しいからなのだろう。
自分のことを話し続ける人は、「自分はこんなに価値のある人間なんだ」ということをこれでもかというほどに語る。
自分はこんなことを知っている。(お前は知らないだろう)
自分はこんなことができる。(お前はできないだろう)
自分はこういうものを持っている。(お前は持っていないだろう)
自分はこんなところに行ったことがある。(お前は行ったことがないだろう)
自分はこんなものを食べたことがある。(お前は食べたことがないだろう)
自分はこんな経験をしたことがある。(お前はしたことがないだろう)
まぁ、要するに自慢だ。
寂しさの構造として、まずは自分で自分のことを大事にしていない。
自分を大事にするのは他人だと思っている。
そして、他人に自分の価値を認めさせれば、他人は自分のことを無条件で大事にしてくれる、認めてくれると思っている。
だから自分の価値を必死に語る。
そして延々と語っている限り、人から聞いてもらっている、注目してもらっているという感覚を得ることができるので、寂しさが一時的に緩和されるのだろう。
Aさんは釣りの話や自分の兄弟や学生時代の話を主に女性の同僚に向けて話していたが、彼女は当然何の興味も抱いていない。
百歩譲ってAさんの話の価値がわかったとしても、彼女がAさんのことを大事に思ったりすることはないだろう。
むしろ、うんざりして、以降は近づきたくないと思ってしまうだろう。
彼女もまた自分のことを見てもらいたいという寂しさを抱えているのだから、自分のことを明らかに見ていない相手を必要とすることはないだろうからな。
私たちはつい、自分の寂しさを解消するために「価値のある自分」というものをアッピールしてしまうが、どんなに「価値のある自分」というのものをアッピールしたところで、自分の寂しさは一向に解消されることがなく、そのアッピールは空回りして、むしろ人が近づいて来なくなってしまう。
自分の寂しさを解消するためには、自分で自分のことを大事にするか、懐の深い相手、信頼できる相手を見つけて、自分からその相手に近づいていき、自分の寂しさを正直に打ち明けるしかない。
大事にされたいからといって、「価値のある自分」をアッピールして、人のほうから自分のほうに近づいてくることを期待しても、人は基本的に近づいてこない。
近づいて来たとしても、これまでの習慣によって相手をきちんと見ようとすることがないために、すぐにメッキが剥がれ、良好な人間関係が築きにくい。
他人に自分の価値をアッピールして人から大事にしてもらうこと、人から認めてもらうことばかり考えるのではなく、自分で自分を大事にできる、自分で自分を認めることができる余裕のある自称大人になりたいものだ。
声出して切り替えていこうと思う。