おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

どうしてモノを減らすと心が落ち着きやすくなるのか

必要なものだけで良しとした暮らしは単純で、穏やか

凪良ゆう『汝、星のごとく』

 

人間関係も持ち物の量も、自分にとって必要な量、自分がきちんと使うことのできる量、大事にできる量の範囲内に抑えておくと本当に生活が落ち着いて穏やかになる。

 

これはどうしてなのか。

 

一般的にものを減らすとお金と時間に余裕ができるからとよく言われるが、それも確かに一理あるのだけれど、それ以上に、心の外のものに注意を奪われることが減り、その分、自分の心に注意を向けやすくなるということが大きい。

 

私たちは心の奥底に寂しさを抱えている。

誰かから見てもらいたい、認められたい、大事にされたいという思いがある。

 

そして私たちは自分の価値をアッピールして、他人に自分の価値を認めさせれば他人が自分を見てくれて、認めてくれて、大事にしてくれると思ってモノをかき集める。

 

自分の寂しさを他人に埋めてもらうために、こんなものを持っているぽよ、これをこんなにも持っているぽよ、とアッピールするためにモノをかき集める。

 

そうしてモノで「価値のある自分」というイッメージを作り上げようとしている。

 

モノを買う時、これを持っている自分は人からよく見られるかなー、人から褒められるかなー、人から一目置かれるかなー、とイッメージしながら買うことが多いのではないかしらん。

 

あるいはモノがたくさんある状態をみて、こんなにたくさんのモノを持っている自分ってなんだかいいなー、価値があるなー、もっと欲しいなーと悦に浸ることってなかしらん。

 

そうして私たちはモノの価値をもってして「価値のある自分」というものを規定しようとしているのだけれど、それは自分だけではなく他人ももちろん同様で、みんなモノをかき集めることに必死であるため、注意は自分の心の方向つまりは内面ではなく、モノの方向つまりは外側を向いてしまっている。

 

私たちは誰かから見てもらいたい、認められたい、大事にされたいと思っているということは、自分の心や内面、存在全体を見てもらいたい、認められたい、大事にされたいと思っているということだ。

 

よって注意を向けるべきところは内面なのだけれど、自他ともに視線が外側にガチムチにロックされているので、自分の心に目を向ける存在は自分であろうと他人であろうと誰一人としておらず一向に寂しさは解消されない状態が続くことになる。

 

だからもっと価値のあるモノをもっとかき集めれば人は自分のことを認めてくれて、大事にしてくれて自分の寂しさは解消されると思い、ますますモノをかき集めようとしてしまう。

 

だがしかーし、モノでいくら「価値のある自分」というものをアッピールし、いい感じのイッメージを他人に与えたところで、他人は自分の心の内を実際に見たり、認めたり、大事にしようとしてくれるわけではない。

 

先述したように、私たちの多くの視線は心の外を向いているからだ。

 

そして他人が自分を認めてくれたとしても、多くの場合、他人が認めているのはモノそのものの価値であって、自分自身の価値ではない。

 

フェッラーリには確かに価値があるが、自分はフェッラーリではないので、フェッラーリの価値と自分の価値というのはまた別だ。

 

人はフェッラーリは褒めるだろう。

 

そのフェッラーリへの賛辞を自分への賛辞として受け取るという段違いな勘違いによって、一時的に寂しさは誤魔化せるかもしれないが、それはあくまでも勘違いであるので、まだ寂しさはがっつり残ったままだ。

 

他人もまた注意が心の外に向いているので、フェッラーリのことは他人の目に入るが、他人が自分の心の中に注意を払うということはほとんどない。

 

相手が自分の心の中を見てくれて、認めてくれて、大事にしてくれることは期待できない。

 

そもそも自分が相手の心の中を見れないように、相手も自分の心の中を見ることはできないのだから、期待すること自体がナンセンスだ。

 

よって、自分の内面は自分で見て、自分で大事にしていく必要がある。

 

そして、普段使わないもの=ゴミで日常が溢れていると、注意がゴミに奪われてしまい、自分の内側に注意が向けにくくなる。

 

モノが多すぎると、自分が今、どのようなことを考えているのか、どのようなことを感じているのか、どのような感情が起こっているか、どのような思いを起こしているのかを俯瞰的に見れなくなってしまう。

 

逆にモノを減らすと、自分の内側に視線を向けやすくなる。

 

自分で自分の心を見つめて、どんな醜い感情や思いが起こってきても、それをそのまま見続けることで、寂しさがだんだんと減ってくる。

 

すると、他人の歓心を買って寂しさを解消しようとするためにモノをかき集める必要もなくなってくる。

 

寂しさを誤魔化すためにお金や時間を使わなくなるので、当然、時間やお金に余裕ができるというわけだ。

 

モノがないと寂しい感じがするが、それはモノで自分を規定しようとしているからで、実際はモノが必要以上にあることのほうが、自分の内面に注意を向けることができにくくなるぶん寂しくなり、不安になる。

 

一方で、モノを手放すとなると、そのモノによって規定されていた、あるいは規定しようとしていた「価値のある自分」というイッメージが崩れてしまうのではないかという不安が起こってしまうのも事実だ。

 

そうなると、人から認められにくくなるのではないか、人から大事にされないのではないか、という恐れも起きる。

 

だからモノを手放すことが難しくなる。

 

モノへの執着というのは、そのモノが規定している「価値のある自分」というイッメージへの執着であり、「価値のある自分」でなければ自分は人から見捨てられてしまうという恐れでもある。

 

大量の服をもってして「おしゃれな自分」というイッメージに執着している人にとって、服を減らすということは「おしゃれな自分」というイメージを壊すことになり、「おしゃれな自分ではない自分」は人から見捨てられる、相手にしてもらえないという恐れを抱いてしまい、服を手放すことができない。

 

しかし、そこで思い描いている「人」というのはあくまでも自分のイッメージにしか過ぎず、思い込みでしかなく、妄想でしかない。

 

「おしゃれな自分ではない自分」は人から見捨てられる、というのは自分の思い込みでしかなく、その思い込みは自分自身がおしゃれではない人をバカにして相手にしないが故に起きている自業自得的な恐怖でしかない。

 

自分は常に自分の思い込みの中にいて、思い込みと現実は必ずかけ離れている。

 

それが分かれば、モノを手放す時に生じる恐れや不安は一時的なものであるということがわかる。

 

そして手放すと一気に心が楽になる。

 

日常が単純で穏やかなものになる。

 

寂しさを埋めようとして「価値のある自分」というイッメージのためにあくせくする必要がないからな。

 

しかしいくらモノを減らしても、自分の内面に注意を払おうとしなければ意味がない。

そして、自分の内面に注意を払っても、自分の内面で起こっていることを否定したり攻撃したりしても自分が苦しむだけだ。

 

モノを減らす。

自分の内面に注意を払う。

自分の内面で起こっていることをそのまま受け入れていく。

 

この3ステップが平穏な日常にとって大事になってくる。

 

声出して切り替えていこうと思う。