おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

役に立つとか立たないとか関係なく大事にしていけ

誰の、なんの役にも立っていない自分に価値があるとは思えない。

凪良ゆう『汝、星のごとく』

 

世の中には無職の人を価値がない人間として見て、「役立たず」と言って責め立てる人がいる。

 

そして、無職の人の中にも自分は何の役にも立っていないとして、自分を責めたり、否定したりして苦しんでいる人がいるかもしれない。

 

役に立たない人を責め立てたり、役に立たない自分を否定したりするということは、誰かの役に立っているかどうかで人の存在価値を決めようとしてしまっているということになる。

 

人の役に立たないのであれば、それは価値の低い人間である。

そして価値の低い人間はこの世からいなくなればいい。

役に立たない人間がいなくなれば、この世界は良くなる。

 

役に立たないあの人は、役に立たない自分はいなくなったほうがいい。

そしてみんなからもいなくなったほうがいいと思われているに違いない。

 

このような考え方のクセからは早めに離れておいた方がいい。

 

今は実際に何らかの形で「私は人の役に立っている」と感じることができる立場にある人も、諸行無常の理によって、必ず人の役に立てなくなる時が来る。

 

するとその時に、役に立たない人を攻撃するという自分のクセが自分に跳ね返ってきて、役に立たない自分を攻撃することになり、苦しむことになる。

 

また、役に立つとか立たないとかというのは、他人の都合や世間の風向き次第でコロコロと変わる。

 

つまり、他人の役に立っているかどうかで自分の存在価値を決めようとするということは、自分ではどうしようもない他人や世間の動向をもって自分の価値を決めようとしているようなもの、他人からの評価で自分の存在価値を決めようとしているようなものだ。

 

その状態のままだと、他人や世間の顔色をうかがってばかりの日々になってしまうため、不安になるし、疲れる。

 

役に立つから存在してもいい、役に立たないから存在してはいけない。

この思考パッターンは役に立つことと存在価値を連動させているので、危うい。

 

役に立とうが立つまいが、楽勝で存在してもいい。

この思考パッターンは役に立つことと存在価値が切り離されていて、存在価値が絶対的に担保されている。

 

不安や苦しみが多い人は、何らかの価値の有無(役に立っているかどうかなど)と人の存在価値を強く結びつけてしまい、人を攻撃したり人の存在を否定したりしているような気がする。

 

価値は価値(お金や地位や財産や知性や美貌や能力など)、存在価値は存在価値。

 

両者はまったくの別物なので、結びつけてはいけない。

 

無職の人は、確かに世間が価値をおいている「労働」には従事していないかもしれない。

 

しかしながら、働いていようがいまいが存在価値は楽勝である。

給料はもらっていないかもしれないけれど、この世に楽勝で存在してもいい存在だ。

 

肩身のせまい思いをする必要は全然ない。

 

むしろ肩身をせまい思いをしてしまうのは人が肩身のせまい思いをさせているのではなく、自分自身が働いていない自分のことを否定的に見ていてるから肩身のせまい思いをしているだけで、自分が自分に寛容ではないだけだ。

 

だからと言って、働かなくてもいいということにはならない。

働かないことが正しくて、働いていることが間違っているということにはならない。

 

やはり「働くこと」には価値がある。

しかし、労働の価値と自分や人の存在価値は別だ。

 

働いていないからといって、働いていない自分や人の存在を軽く見て、粗末に扱ってもいいということにはならない。

(やってしまうと、遅かれ早かれ自分が苦しむことになるだけだ)

 

働いていようが働いていまいが、そんなこととは関係なく自分のことは大事にしていかなくてはいけない。

 

世間的な何らかの価値と自分や人の存在価値を連動させたり、混同していないか要注意だな。

 

声出して切り替えていこうと思う。