おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

他人からの評価で自分の価値を規定しようとしていないか

父親に捨てられた子供、婚期を逃した娘という哀れみとはまったく逆に歯車が回り、若い子たちからは憧れの目で見られ、同年代からはやんわりと牽制され、年配の人たちはわたしをどう扱ったらいいのか戸惑っている。けれどわたしは本当に変わったのだろうか。

凪良ゆう『汝、星のごとく』

 

これまでは他人からある一定の見方をされていたのに、何かがきっかけで次は一転して他人から別の見方をされる。

 

自分自身が自分の都合で物事の見方をコロコロと変えるように、他人は他人の都合で物事の見方をコロコロと変える。

 

そして自分自身が他人のことをありのままに捉えることができないように、他人もまた自分のことをありのままに捉えることができない。

(私たちは自分というフィルターを通してしか物事を見ることができないので、必ず歪みが生じる)

 

ここで注目したいのは、他人からの評価というのはコロコロ変わるし正確ではないため、実に心もとないし、当てにならないということだ。

 

しかし私たちは、そのような心もとない他人からの評価をもってして自分自身を規定しようとしてしまう。

 

他人から高評価であれば、自分は価値のある人間だと思ってしまうし、他人から低評価であれば、自分は価値のない人間だと思ってしまう。

 

他人からの高評価を得て、自分を価値のある人間であると規定するために、他人から高評価を得やすい何か、例えば、金、地位、名声、権力、名誉、知性、美貌、モノ、才能などをかき集めることに必死になる。

 

あるいは、他人からの低評価を避けるために、他人からの低評価を得やすい何か、例えば、貧乏、失脚、左遷、不名誉、愚鈍、醜悪、失職、離婚、独身などを強迫的に回避しようとする。

 

しかし果たして、そもそもが心もとない他人からの評価で自分の価値を規定することに意味などあるのかしらん。

 

仮に他人からの評価で自分の価値を規定できるとすると、自分は他人から言われたとおりの人間になるということになる。

 

他人からバカと言われたら、自分はバカな人間ということになるし、天才と言われたら、自分は天才的な人間ということになる。

 

自分は他人が評価するとおりの人間になる、というのは実際のところありえない。

(他人が評価する通りの自分のふりはある程度できるかもしれないが)

 

自分の本質というのは変転する不正確な他人からの評価とは別のところにある。

人からどう見られているかということと、自分の中身や本質は関係がない。

 

ある日、私の銀行預金残高は1万円で、それを見て人は私のことを貧乏だと言った。

よって私は価値のない人間だ。

 

次の日、私の銀行預金残高は1億円で、それを見て人は私のことを金持ちだと言った。

よって私は価値のある人間だ。

 

この1日で預金残高は変わったし、人からの評価も変わったけれど、自分自身の本質は果たして変わったのだろうか。

 

預金残高と他人からの評価が変わったことによって、自分の中身や本質も変わったのだろうか。

 

絶対に変わっていない。

 

ここでいう中身や本質というのは、自分の物事の捉え方の傾向や思考パッターンのことだ。

 

人からの見られ方やお金を使ってできること自体は変わったかもしれないけれど、自分の物事の捉え方や根本的な価値観や行動原理や判断基準は変わらないままなのではないかしらん。

 

無論、自分の中身や本質というのは絶対に変わらないもの、というわけではないけれど、他人からの評価ごときで自分の本質は何も変わらないし、規定することはできない。

 

他人が評価しているのは自分の本質ではなく、資産残高や実績や結果や外見であり、それらは記号的なものだ。

 

記号の有無や大小は自分の本質ではない。

 

自分でも自分の中には記号化できないものがあるということがわかると思う。

 

それがわからない人は、人のことを記号として見ているのかもしれない。

人のことを記号としてしか見れないから、自分のことも記号としか思えない。

だから記号が全てになり、見栄えのいい記号をかき集めることに必死になる。

 

悪は世界を薄っぺらい記号の集まりとしか考えない傾向が強いけれど、善はこの世界が記号の集積でなく、存在する一つ一つにいっぱい内実がつまっていてそれらはどれも取り替え不可能であることを知っている。悪は世界を薄っぺらな記号としか思わないから、世界がパズルかゲームのようにしか感じられない。

保坂和志『人生を感じる時間』

 

記号の部分は記号の部分でいいとして、記号と自分の本質はきちんと区別したほうがいい。

 

記号は記号で確かに価値はあるが、それはどうにでもなる取り替え可能なものだ。

 

金、地位、名声、権力、名誉、知性、美貌、モノ、才能、これらの記号は誰かのもとに移動することもあれば、衰えて消え失せてしまうこともあれば、その代替品を見つけることもできれば、人工的に作りあげることもできれば、口からでまかせででっち上げることもできる。

 

しかし、自分の中身、本質、内実は取替え不可能なものだ。

 

だから、「取替え可能な記号=他人からの評価」と「取替え不可能な自分の本質」とを結びつけてはいけない。

 

記号と本質を切り離し、記号がどんなものであろうと、本質の部分は絶対に大事にしていかないといけない。

 

だがしかーし、根本的に結びつかないものを結びつけて勝手に苦しんでいるのが私なのであーる。

 

記号で自分を規定して、価値のない記号の集まりでしかない自分は価値のない人間で、こんな自分はいなくなったほうがいいぜベイビー、と自己否定をしているか、あるいは、もっと良い記号をかき集めないといけないぜベイビー、と強迫的に自分にムチを打ちネバギバの精神で頑張っているかして(これも結局は自己否定だ)、苦しんでいる。

 

記号は記号、本質は本質。

 

ちゃんと区別していこう。

 

そして声出して切り替えていこう。