おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「自分の価値」と「何か」とを連動させようとする思考パッターン

少し前に私は仕事でミスをし、幾分多くの関係者に迷惑を掛けてしまった。

その時はやはり落ち込んだのだけれど、今では何ともなくなっている。

 

私たちは基本的に怒りや落ち込みを感じることがあって、その怒りや落ち込みの渦中にいる時は、その怒りや落ち込みによる不快感が延々と続くものだと思ってしまいがちなのだけれど、これまで何度も怒ったり落ち込んだりしてきたにも関わらず今は何も感じていないように、結局そういう怒りや落ち込みは一時的なものに過ぎないんだなー、と考えるとその渦中にいる時も幾分冷静になれてしまう。

 

私たちは「何か」と「自分にとっての自分の価値」というものを結びつけてしまう傾向がある。

 

私は仕事ができるから、私には価値がある。

私は大金を持っているから、私には価値がある。

私には美人の妻がいるから、私には価値がある。

私は権力をもっているから、私には価値がある。

私は頭が良いから、私には価値がある。

私はみんなにチヤホヤされるから、私には価値がある。

 

能力や肉体美や知能は一見自分自身に思えるが、「何か」と「自分にとっての自分の価値」を結びつけようとしている限り、それらは不特定多数の人間から良い評価を得るための手段でしかない。そして、それらを通じて不特定多数の人間から良い評価を得て、その評価の有無や増減や多寡で自分の価値を決めている。無論、「他人からの評価」は「自分ではないもの」にあたる。

 

このようにして私たちは「自分ではないもの」によって「自分にとっての自分の価値」が決まると思ってしまう傾向にあるし、実際に「自分ではないもの」で「自分にとっての自分の価値」を決めてしまっている。

 

仮に仕事の能力の高さと自分にとっての自分の価値を連動させていたとすると、仕事でミスをしてしまい自分の能力の低さを痛感した場合、自分にとっての自分の価値は低減することになる。すると、こんなに価値のない自分はどうなってもいいとなり、自分自身のことがどうでもよくなり、日常が乱れ、それによってますます自分を粗末に扱う習慣が身についてしまう。

 

一方、仕事の能力の高さと自分にとっての自分の価値が切り離されていて、仕事の能力の有無や多寡がどうであろうと、自分にとっての自分の価値がある程度高い状態で一定である場合、仕事でミスをしてしまい自分の能力の低さを痛感したとしても、自分にとって自分が大切であることは変わりがないために、自分自身のことがどうでもよくなることはなく、自分を整えるための行動を淡々と行うことができ、その結果、落ち込みからも比較的早く立ち直ることができる。

 

私たちには一定の執着心があり、なおかつ諸行無常の理によって物事が必ず思い通りになるとは限らない以上、落ち込む事自体は避けられないし、時として大事なことでもあるのだけれど、延々と引きずっているとそれはそれでもったいない。

 

だけども引きずってしまう、というのが実際のところだと思うのだけれど、その場合は、自分ではないもので自分にとっての自分の価値を規定しようとしている傾向が強い可能性がある。自分ではないもので自分の価値を決めようとするときりがないし、その方向に安心や満足や幸福はない。

 

自分にとっての自分の価値は絶対的であり、何か外部的なものによって規定することはできない。だからこそどんな状況下にあっても自分を大事にし続けていく必要があるし、この原則は他人にも同様に適用され、他人にとって他人自身の価値は絶対的であるので、他人をないがしろにすることもまたタブーである。まぁ、神でも仏でもない私たちはついやってしまうのだけれど、やればやるだけ苦しみの原因を作ることになるのでまじでやらないほうがいい。

 

まぁ、時には落ち込んだり後悔したりすることもあるだろうけれど、とにもかくにも、なんとかなるなる鳴門海峡というわけだ。

 

以上です。