おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

睡眠・食事・排泄・涅槃

先日、市川沙央さんの『ハンチバック』という本を読んだ。

 

私と同じような筋疾患で寝たきりの隣人女性は差し込み便器でトイレを済ませるとキッチンの辺りで控えているヘルパーに手を叩いて後始末をしてもらう。世間の人々は顔を背けて言う。「私なら耐えられない。私なら死を選ぶ」と。だがそれは間違っている。隣人の彼女のように生きること。私はそこにこそ人間の尊厳があると思う。本当の涅槃がそこにある。私はまだそこまで辿り着けない。

 

私たちは自分を価値のある人間として定義しようと価値のあるものをかき集めることに必死だ。そして必死にかき集めた価値あるものをもってして自分を自分なりに定義している。

 

〇〇円分の資産をもっている私

〇〇という企業に勤めている私

〇〇という賞を獲った私

〇〇という学位を持っている私

〇〇に住んでいる私

〇〇という車を持っている私

〇〇な配偶者がいる私

〇〇という経験をしたことがある私

〇〇ということに貢献している私

・・・

 

例を挙げれば切りがないが、とにかく私たちは自分は価値のある人間であると定義したいし、アッピールしたいし、他人から価値のない人間だと思われたくない。

 

しかし、私たちが自分を定義するためにかき集めようとしているものは全て自分ではないし、諸行無常の理によって一定のものとして留まることはない。いずれその価値は朽ち果てるか、低減するか、時代とともに変化するか、自分の手元を離れていく。

 

徒然草』で吉田パイセンは、我々の人生は春の日差しの下で溶けていく雪だるまを必死に飾り付けているようなものだ、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のことを言っていたのだけれど、どんなに自分ではないもので自分を飾り立てて定義づけようとしても諸行無常の理によって自分自身の肉体が朽ち果てていくのだから虚しいだけだ。

 

自分の血肉の一部であり、これは一生ものであると見なされやすい知識や才能や思い出や経験も脳髄(肉体)に依存しているものなのだから、諸行無常の理によって脳髄に何らかの変化が起これば、それらの価値のあるものは変質するし、一瞬にして吹き飛んでしまう。

 

私たちはそれほどまでに心許ないものをもってして自分を定義しようとしている、このことに気がつく必要がある。最初から持っていなかったものを手に入れて、そうして手に入れたもので自分を定義しようとしているが、最初から持っていなかったということは自分ではないということでもある。

 

例えば、生まれる時に札束を握りしめて子宮から出てくる赤ん坊はいない。そしてその赤ん坊は成長し、お金をかき集め、そのかき集めたお金で「資産〇〇円の私」というように自分を「価値のある自分」と定義しようとする。自分ではないもので自分を定義しようとする。

 

では何をもってして自分を定義すれば良いのか。

 

それは生まれてから死ぬまでにどんなことがあってもやり続けること、つまり眠ること、食べること、排泄すること、これらの営みに集約される。

 

赤ん坊も老人も一般市民も犯罪者も健常者も障害者も大富豪もホームレスも権力者も奴隷も労働者も無職の人も定年退職者もどんな人であろうと睡眠と食事と排泄は行う。

 

差し込み便器で排泄を行い、それをヘルパーさんの手を借りて後始末してもらう境遇に対して、死を選んで対処しようとするということは、自分の定義づけを正確に行えていないのかもしれない。

 

自分のことを「眠る者」、「食べる者」、「排泄する者」ときちんと定義できていないのかもしれない。自分のことを「汚物の詰まった皮袋」ときちんと定義できていないのかもしれない。眠ることや食べることや排泄することに価値を置けておらず、それらがいかに大切で、有意義なことなのかを理解できていないのかもしれない。それ以外の一時的なことで自分を定義することに執着しているのかもしれない。

 

昨日、私は職場で部長にわざわざ呼び出され、作成した資料について些末な指摘を受け、まじでどうでもいいじゃんけ、と内心イラッとしてしまった。

 

ということは、私は仕事の出来不出来で自分を定義しようとして、自分には仕事ができない部分があるということを受け入れることができなかったし、今でも受け入れることができていないのだろう。

 

仕事はできるに越したことはないかもしれないが、自分を定義するには心許ないものだ。本質的な営みである睡眠、食事、排泄に比べたら、ただのオプションでしかないということは頭ではわかっているだけで、私は今でも仕事の出来不出来で自分を定義しようとしているのだろう。

 

涅槃はまだまだ先だ。

 

声出していこう。