おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「平凡だから価値がない」という思考パッターン

私たちは他人との差に対して優越感をいだきたいと思っている。そうして他人よりも優位な人間になること、あるいは他人よりも優位な人間だと思えるようになることが幸福だと思っている。

 

自分はやっているけれど、他人はやっていない状態

自分はできるけれど、他人はできない状態

自分はわかるけれど、他人はわからない状態

自分は持っているけれど、他人は持っていない状態

 

以上のような状態になることにしか価値を見いだすことができず、そのような状態になることを幸福だと思っている。だから希少性の高いものを手に入れようとし、特別な能力を身につけようと頑張り、非日常を追い求めている。

 

私たちが「価値のある人間になる」と言った時、多くの場合、それは「いかに他人と差をつけて、優越感を味わうか」ということを意味している。

 

マザーテレサ並みに自己犠牲を払っている人も、「私はこんなに自己犠牲ができる、あの人はできないぽよ」と自分なりにきれいな自分を感じて心の中では優越感を味わっているということもあるだろう。

 

いずれにせよ私たちの多くは、常日頃から優越感を求めているので、このままの状態では優越感を得ることができない、やばい、他人を見下せるように何か特別なことができるようにならなければならない、何か高価なものを手に入れなければならい、他人が到底真似のできないような何かをできるようになければならない、他人が到底手に入れることのできない何かを手にれなければならない、やばい、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の強迫観念や飢餓感に苛まれることになる。

 

そしてその苦しみを誤魔化すために惰性で欲に流れたり、非日常をもってしてスカっとしようとする。

 

私たちの思考パッターンとして、「みんなができるものには価値がない」というのがある。

 

例えば歯磨き。

私は毎日楽勝で歯磨きをしている。そして毎日楽勝で歯磨きをしている人は周囲にたくさんいて、容易に見つけることができる。

私は歯磨きをしている。他人も歯磨きをしている。

他人が歯磨きをしているからと言って、歯磨きの価値はなくなるのか。

無論なくならない。全然なくならない。

 

例えば自炊。

私は毎日自炊をしている。

他人も毎日自炊をしている。

他人が自炊をしているからといって自炊の価値はなくなるのか。

無論なくならない。全然なくならない。

 

例えば起床。

私は毎日起床している。

他人も毎日起床している。

他人が起床しているからといって起床の価値はなくなるのか。

無論なくならない。全然なくならない。

 

自分が楽勝でやっていることであり、他人も楽勝でやっていることで、なおかつ価値のあることというのはたくさんあるのだけれど、「みんなができるものには価値がない」という思考パターン、あ、間違えた、思考パッターンのせいでそのことに気が付きにくくなっている。

 

優越感を求めて他人を見下すために生きている私たちは、他人の優位性を認めると自分が劣位に立つように感じたり、他人が上であることを認めると自分が下になったように感じるので、よほどのことではないと他人のことを価値のある存在として認めない。そうして他人を認めるためのハードルが高く設定され、そのハードルは自分にも適用されるされるため、その結果、そのハードルを超えていない場合、自分を肯定しにくくなるし、超えていてもそれが当たり前になり、当たり前のことには価値を見出さなくなり、より高いハードルを設定し、自分で自分の首を締めるようなことをしてしまう。

 

この苦しみの根本的な原因は、他人との差分、他人との非対称性、他人との相対性、そこにしか価値を見い出せないような思考パッターンにある。当たり前のこと、基本的なこと、根本的なこと、中核的なこと、誰もができて当然だと思っていることには価値がないと思っており、それ以外の特別なことにしか価値はないと思っている、という思考パッターンにある。

 

だがしかーし、当たり前のこと、基本的なこと、根本的なこと、中核的なこと、誰もができて当然だと思っていることには、実際には楽勝で価値があり、なおかつそういう価値のあることを実は自分も楽勝でやっているし、他人も楽勝でやっている。自分も他人ももうすでに価値のあることをやっていて価値のある存在なのである。

 

自分も他人も平凡だけれどものすごく価値のあることを日頃からやっているし、できているのに、ただそれが当たり前だから、みんなできるから、ただそれだけの理由で「価値のあること」が「価値のあること」としてみなされず、基本的に「価値のあること」が「価値のないもの」としてみなされ、それ故に何か特別なことがなければ自分や他人を肯定できないようになっている。

 

平凡の価値にいかに気付けるか。それによって、特別なことを追いかけ回して疲労困憊する度合いも減っていくのではないかしらん。