おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

上か下かを問題にするだけの生き方

先日、西加奈子さんの『サラバ』を読んだ。同書に以下の文章があった。

 

「あなたは誰かと自分を比べて、ずっと揺れていたのよ。」

僕の好意さえ、誰かに監視されたものだった。

みんなが見て羨ましがるような女か、恥ずかしくない女か。

 

主人公は幼少期より常に人の顔色をうかがって生きてきた。そしてそれは人からどう見られるかだけを問題にする生き方でもあり、人を見下し続ける生き方でもあった。

 

そして幸運なことに、人から良く見られるように振る舞うことができたし、人を見下しやすい境遇でもあった。

 

外見にも恵まれ、サッカー部に所属し、面白い友人たちに囲まれ、異性からモテて、華やかな仕事にありついていた。

 

しかし、主人公の物事を選ぶ判断基準は優越感を得られるかどうか、それに集約される。

 

クラスの中心人物と仲良くなれば人より上に立てる、運動部に入り、運動部の中でも人気の部活に入れば人より上に立てる、セフレはたくさんいるが自分の評判が落ちて自分が見下されないように細心の注意を払う、周囲の人間から評判の良い羨むような女性を恋人にすれば人より上に立てる。

 

主人公は、周囲の不特定多数の人間から価値があるとされているものだけを求めてきた。自分の評判を落とすものを避け、自分の評判をあげるものばかりを求めてきた。そして、周囲の不特定多数の人間から価値があるとされているものを手に入れたり、実現したりすることによってのみ、自分は価値のある人間なんだと実感し、そういう自分を肯定してきた。

 

不特定多数の者が価値があるとしているものを手に入れ、「それをおれは持っている、あいつは持っていない」と他人と比べ、優越感を得て、人を見下すことによって自分を肯定している。

 

実際に我々の多くもそのような指向性をバリバリに持っている。

 

この世の人の大半は実際に優越感を得られている人と、優越感を得られず悶々としている人の2つに大きく分けることができる。一見すると両者は対極にあるが、何らかの形で優越感を得ようとして日々を送っていることに変わりはない。

 

優越感を求める生き方は、自分なりに人を見下せている間は気持ちが良くていいかもしれへんが、諸行無常の理によって、「ずっと他人から評価されている」状態や「ずっと自分が上」という状態は必ず崩れることになる。そうなると、これまで自分が人を見下してきた分、次は自分が人から見下されているような気がバチクソにしてきて、肩身が狭く感じたり、人と会うのが怖くなったり、自分のことが嫌になったりする。

 

実際に主人公も諸行無常の理によって年を取り、容姿が衰え、異性からモテなくなり、職を失い、恋人と別れ、「価値のある自分」を感じさせる優越感の源泉をなくしてしまうと、自分が順風満帆だった時に他人を見下していた分、それらが一気に苦しみとして押し寄せ、至極参っていた。

 

僕は現実の自分に散々痛めつけられていた。現実を見たくなかった。僕には、輝かしい思い出の中にしか、自分の姿を認める勇気がなかったのだ。

 

主人公は過去の「価値のある自分」しか認められず、現在の「価値のない自分」を認められずにいる。「価値のない自分」を認めてしまうと、自分がかつてやってきたように人から見下されるのでないか、馬鹿にされるのではないかと思ってしまうからだ。それは傍から見ると本人の思い込みに過ぎないのだけれど、当の本人はこれまで「価値がない人」に対して冷淡な思いを起こしてきたのだから、自分が「価値のない人」になった時は、人から冷淡に思われていると思わざるを得ない。

 

仏教でいうところの「自分が普段起こしている思いが自分の世界を作り出す」というのはこういう意味なのだろう。なるほどなー。

 

つまるところ、人と比べて優越感を得て他人を見下す方向性の生き方は、麻薬と同じで、優越感を感じられている間は気持ちが高揚して気持ちが良いけれど、後の反動が半端ではないし、人によっては耐えられない。だから「自分なりに」落ちぶれると、自ら命を絶つ人がいるのかもしれへんどす。

 

優越感を求める生き方においては、人間関係も自分をよく見せるためのアクセサリーでしかない。例えば、恋人がいるほうが上であり、その中でも美人と付き合っているほうが上、あるいは、結婚しているほうが上であり、その中でも金持ちの妻であるほうが上、という自分なりの上下の図式を勝手に作り上げ、その図式の中で自分が上に立つために恋人なり結婚相手を見つけ、人を見下して生きる。

 

そのような人間関係においては、「価値があるとされている人と付き合っている自分」のことしか見えておらず、その人と付き合うことによって自分の他人からの評判はどうなのかということしか念頭にないため、相手に寄り添ってあげたり、相手を寛容に受容することができない。相手の良いところには目を向けず、相手に醜いところがあると、それだけをもってして相手との人間関係をぶった切ってしまう。

 

なんか話が拡散してまとまらなくなってきたぜ。

 

優越感を求める生き方のヤバさがわかったところで、そのような生き方をすぱっとやめることができるのかというとそれは難しいかもしれない。できたとしても、優越感をもたらす基準をある基準から別の基準に変えることが関の山だろう。「ブランド品をどれだけもっているか」という基準から「どれだけモノが少ないか」という基準に変えるように(なんか比喩をかます時の村上春樹みたいになってしまったなー)。そしてそれはそれで人と比べて優越感を得ようとしていることには変わりがない。

 

自分の生活が「人から評価されてなんぼ」の価値観一色だけだといずれどんづまってしまうけれど、日々の生活の中に「人から評価されなくても自分は価値があると思うもの」が少しでもあると良いのかもしれない。そして「人から評価されなくてもすごく大事なもの、すごく価値があるもの」というのは日常生活の中に実はたくさんある。

 

それは夜にきちんと寝て朝起きることであったり、掃除をすることであったり、洗濯をすることであったり、服をたたむことであったり、使わないものを捨てることであったり、自炊をすることであったり、風呂に入ることであったり、軽い運動をすることであったり、極々平凡なことだ。

 

それらはやろうと思えば誰もができる至極平凡なことであるが故に、アクセサリーにはなりえず、人から「価値のある人間」としての評価は得られない。だがしかーし、至極平凡なことは日常生活の根幹であるが故に価値は十分にある。そういう他人からの評価とは関係のない平凡で大事なことに価値を置いていけばいい。すると、人と比べることなく、優越感と関係なく、自分を「価値のある人間」として肯定しやすくなる。

 

そんな感じだ。

 

いよいよまとまらなくなりそうなのでここで終わります。

以上です。